win a prize



 皮膚をゆるやかに焼いてゆく日差しを避けて、木陰に逃げ込んでもなお、生ぬるい風が太陽を煽るように全身をなで上げる。群馬の夏は何度も経験したが、さすが前橋とともに本州最高気温を観測する土地柄とあって、照り返す太陽の仕事っぷりは容赦ない。
「あぢー…やってらんねーな…」
 暑さと空腹で逃げ込んだコンビニを出た途端、啓介の短く切った髪の下を熱が侵してゆく。このところ予定がないのをいいことに不精して何日もクーラーの効いた部屋で過ごしていたせいか、かすかに流れる熱風にすら体力を削がれる思いがする。もっとも、涼しい部屋でのんびり過ごさせてくれない人のおかげで、筋トレやら最速理論のお勉強でへたばっていたのは確かだ。

 ―そろそろオレの頭オーバーレブ気味なんだけど…
 走ったらきっと判ると思うんだけどなぁ、と毎日4時間も机とビデオに向かったままで講義に耐えていた啓介が、「お伺い」を立てた。なにせ、このところ赤城がやかましくて思うように走れない不満が喉の奥まで満ちている。冬は雪のせいで交通規制をしない警察だが、夏になるとはりきって峠に乗り込んでくるからだ。
 ―明け方だったらいけると思わねぇ?藤原だってあんなに豆腐の配達で走ってんのに、つかまんねーし。
 アニキが走ってレクチャーしてくれたら、一石二鳥だろ?と、うっすらと細められた兄の目を覗き込むように、啓介は言葉を重ねた。
 あと半年。
 見えないリミットが涼介の中にある。そのことを思うと、啓介の内臓がじわりと熱を帯びた。鮮やかな軌跡を描いて、あれほど公道を駆けたFCはもういない。遠征での行軍では、バックミラーの中にすっかりパンダトレノがなじんでしまっている。ミラーにあの車が映らなくなってからどれくらい過ぎただろうか?そして、こんな風に車からはなれてゆく涼介に馴染むのだろうか?
 ―なぁ、走ろう?
 どんな気持ちで兄が決別を決めたかなんて、これから先も走る啓介にはわからない。今はあえて考えずに涼介の見えない気持ちを探るように、冷ややかに見える視線の奥を誘う。今ならまだ言える言葉で。
 ―啓介…。
 涼介の視線がわずかに和らいだ…ような気がした。静かな声が啓介の背中を撫でただけで、指がわずかに跳ねる。次第に失われる空気を捕まえたくて、啓介は臆病な指を握りこんだ。
 
 ―なら、気分転換にコース撮影に行って来い。
 にっこりと微笑んだ兄の顔を熱で揺らぐ地面の向こうに睨みながら、啓介は買ったばかりのアイスの袋を引き破った。いつも視察役を果たしていた史浩があいにく忙しいらしい。
「群馬の暑さもかなりきてますけど、1度違うだけでこんなに暑いもんなんですねぇ…」
 ケンタがかじりついたアイスと一緒に溶けそうな声で話し掛ける。体温よりも高い気温から逃げようと、ふたりはアイスにかじりついた。
「今日はありがとうございました、啓介さん。おかげで勉強になりました」
「そりゃよかったけどよ。怪我してんだから、無茶すんなよ」
 すんませんという声が蝉時雨に溶けてゆく。下がったケンタの頭を啓介が手荒く撫で回した。階段を勢いよく駆け下りたら、足首を捻ってしまい、全治2週間を言い渡されたケンタは、助手席とはいえ久しぶりに車に乗れて、少しばかり浮かれているようだ。
「ま、おかげで俺も久々に車に乗れたしな」
「そういや啓介さんも涼介さんも全然赤城に来てませんでしたね。みんなでつまんねぇって言ってたんですよ」
 まだ固い氷に牙をたてる。かしっと軽い音を立てて、啓介の熱を和らげた。
「やっぱ、ふたりがいないとみんなテンション低くて…」
 かしっ。
「プロDの方が忙しいってことは承知しているんすけど…」
 かしっ。
「…涼介さんは、もう走んないですかね?」
 かしっ、とアイスが砕ける。突然ケンタから投げかけられた言葉と一緒に飲み込むのに、啓介はひどく長い時間を感じた。
「…さぁな」
「…オレ、信じられなくて。涼介さんが走らないってことが」
 かしっ。
「走らない涼介さんを受け入れちまうのが…なんか怖くって。いつかオレも走らなくなるのかとか、考えちまうんです」
 こんなに車好きなんですけどね、と呟くケンタの声が蝉時雨にかき消されないで、啓介の中に飛び込んでくる。
「考えないヤツなんていねーよ」
 啓介は柔らかくなったアイスをなだめるように舐めてゆく。それはゆっくりと啓介の中で融けた。
「でもよ。その前にやらなきゃいけねぇこととか、やっときたいことがあるんじゃねぇ?」
 どんな場合でも車をやめるときはある。
 それは、事故ってそのまま死んじまうときだってそうだし、なにか別の道を見つけたからだったり、自分の中で区切りがついたからだったりする。…たぶん。
「涼介さんは『やった』から辞められるんですかね?車好きだったら走りたいんじゃないんすか?」
「さーなー。でもよ、車が好きってことと走るってことは別なんだろうよ」
「別ですか?」
 車に乗ってなければ、好きではないなんてことないはずだ…たぶん。好きすぎて、乗らないなんて思えない自分やケンタには実感がないけれど。
「じゃなかったら、なんでアニキがプロジェクトDやるんだよ。好きじゃなかったら、あんな時間割いてやらねぇよ」
 たとえばだけどな、と啓介が言葉を投げた。
「今、怪我で車乗れないよな?乗れなくても車好きだろ?」
 ケンタが揺らぐこずえの先を軽く見上げる。わっかんなくてもいいぜ、と啓介はケンタの頭を上から押さえた。自分と違う楽しみ方であっても、涼介が同じように車が好きなことは唯一たしかなことだ。
 一緒でなくても、走らなくても変わらないだろう。
「今じゃなくてもいずれお前もわかるだろうし、それよかもっとやらなきゃいけないことがあるだろ?!」
 啓介は棒にしがみつくアイスに噛み付いた。あれほど暑かった喉が鎮まっている。
「あ〜、走りてぇ…」
 あれほど啓介を悩ませた熱が消えたが、代わりに跳ねるような衝動が体の中で暴れ出した。啓介はすっかり冷えた喉と頭で、熱が踊るアスファルトの向こうを見つめる。
 まだ、やらなきゃいけないことがたくさんある。
 ケンタだけでなく…
「よしっ、帰るぜ!…ってお前、食うの遅いなぁ」
「ん!!啓介さん!それっ!」
 すっかり丸裸になった棒きれをゴミ箱を放ろうとすると、ケンタが騒ぎ出した。
 握っていた白い棒に焦げた刻印。

 「答え」なんて、こんな風に見つけてゆけるのかもしれない。

 -END-



↓管理人へ一言↓
  





template : A Moveable Feast