紫陽花 | |
雨が肌にはりつくような休日は、どこにも出かける気がしない。昼食の冷麦をすすっていたら、向かいに座る和美が呟いた。 「アニキ、髪のびたね」 「ん?…ああ」 言われてみれば、最近視界が狭い。 「切ってあげようか?」 朝から降り続いている雨が、屋根の上でぼそぼそと呟いている。 「アニキ、座って座って」 「はいはい」 和美の小さな手にひかれて、渉は縁側に座った。 ばさっ 和美は勢いおいよくビニールシートを広げて、素早く渉にまきつけると、洗濯バサミでそれをとめる。 「ぷっ」 「…なんだよ」 渉の首のまわりにタオルをまく和美が、肩を震わせて笑う。 「だってぇ、アニキってば、てるてる坊主みたいっ」 「…笑うのはいいけど、失敗すんなよ」 霧吹きを持つ和美は笑いを飲み込んだ。 しゃき。 ハサミが軽い音をたてると、雨のように髪が散る。 しゃき。 ―和美もやりたいっ、しゃきしゃきする! ―ぶきっちょなお前がやると、丸坊主だろー? 子どものころは、いつも母が「床屋さん」だった。おっきくなったらね、母が宥めるが、ぷくっとふくれた和美は、すねたままチラシ紙で折り紙をはじめた。 ちょっとくたびれた鶴を折ると「ぶきっちょじゃないもん」と言って、渉のまわりを鶴だらけにしてゆく。髪も切り終わるころには、渉のまわりは足の踏み場もないほどの鶴でいっぱいになっていた。 「ちょっとは上手くなったでしょ?」 しゃき。 「どーだか…切りすぎんなよ?」 「わかってるよ」 しゃき。 「結構サマになってるな」 しゃき。 「練習してるもん。バイト先の美容院でも教わっているんだ」 美容師のたまごは、昔よりも器用に手を動かして、髪を削いでゆく。 「はい、上向いていいよ」 「…雨、止まねぇなぁ」 しゃき。 「梅雨だもん」 しゃき。 小さな庭からひんやりと風が流れ込む。しょぼくれた緑にあざやかな青がまぶしく揺れ ている。ふいに、小さな声が渉の耳の奥をかすめた。 ―和美、お外行きたい。 それは、もう3日も雨が降り続いた日。小さな和美が、とうとう家の中で遊ぶのを嫌がった。 ―だけど、外は雨だぞ。公園も濡れてて遊べないし、誰も来てないよ。 下唇をかむ和美は、ぎゅっと上着を握ったまま黙っている。 ―……ちょっとだけだぞ。 渉は、はしゃぐ和美に雨合羽を着せると、傘をつかんで外に出た。 ぱしゃん。 和美は長靴で、わざと水溜りの中を歩いて遊ぶ。 ―ひゃあっ ―どうした? ―水が長靴ん中入ったぁ ―ドージ。 そんなふうに笑いながら公園につくと、やっぱり誰もいなかった。しかし、和美はそんなことも気にせず、いつもより広い公園を横切って、大好きなぶらんこへかけよる。 ―おにいちゃん、こいで、こいで! ―しっかりつかまってろよ。 ぶらんこがきぃきぃ文句を言いながら、何度も揺れる。 ―ねぇ、おにいちゃん。 ―ん? ―あの花、なに? ―あ? ―青いお花。 ―あじさいだよ。 和美はぶらんこから飛び降りると、まっすぐあじさいに向かって走った。 ―キレイだね。 雨を含んでふくらむ紫陽花は、和美くらいの背丈ほどある。 ―持って帰れないかな?ダメ? ―持って帰ってどうするんだよ。 ―お庭に植えるのっ、パパとママに見せてあげようよ。 ぷちん あじさいが大きく揺れて、小さな和美の手におさまった。 しゃき。 「あじさい」 「ん?」 しゃき。 「今年も咲いたんだな」 しゃき。 「やっと気づいた?」 しゃき。 「キレイだな」 いくつも咲いたあじさいは、あのころの和美の背丈にまで伸びていた。 「とっちゃだめよ」 しゃき。 「もうとらねぇよ」 ハサミの音が止まり、和美は母の手鏡をさしだした。 「どう?」 すこしさっぱりした髪は、結構整っている。もう和美は、拗ねて鶴を折らなくなった。 「さんきゅ」 「どーいたしまして」 鏡の中の和美に礼を言うと、厚い雲の上にいる太陽のように微笑んだ。 「のんびりしてていいのか?今日のバイトは何時からだ?」 「今日はないの。明日は朝から学校で、夕方から夜中までコンビニだけど…」 和美がアルバイトを掛け持ちするようになってから、もう半年近くになる。自動車教習所に通いながら、中古車の雑誌をこっそり見ていたのを渉は知っていた。免許を取った後、どんな車が欲しいのか、まだ渉にもナイショにしている。まだまだ目標金額まで足りないのと言いながら、決して根を上げないで続けていた。 もう和美は、渉にあじさいをねだらない。自分の手で摘むようになった。 「雨、上がったな」 大きなてるてる坊主を開放すると、雨の呟きは消えていた。 「アニキ。今夜、峠に行くの?」 「雨だとタイア減らねぇから…久しぶり一緒に行くか?雨の時の走行感覚を知っておいた方がいいだろ?」 髪の礼に教えてやるよと渉が言うと、はしゃぐ和美の後ろで、青いあじさいが笑っていた。 雨の日に出かけるものわるくない。 |