居心地



  「…なにをしてる?」
 素朴で単純な質問だが、「この男」からはいつもまともな答えが返ってきたためしがない。わかっていても、この場合そう聞かざるを得ない。
 今日期日の仕事をなんとか終えて、ここ何日間かの徹夜を解消すべく家に帰ってきたら、電気が煌々と照らされていた。そこには、家族でもなければ招いてもいない客が、リビングテーブルでパソコン広げて鎮座していれば、誰だってそう尋ねたくなる。
 「見ての通り、仕事中だ」
 パソコンの画面から目を離さないまま、指がキーボード上を踊っている。足下にまで散らばった紙を拾い上げてみると、謎の文字と数値が並んでいる。少なくとも車に関するデータではないようだった。
 「それは、肝硬変が進行したマウスの血液検査の結果だ」
 「…だからなにしてんだ?」
 仕事だといっただろう?とパソコンのキーを打つ手を止めずに返される。
 会話が成り立たない。
 とりあえずベッドが無事ならいいと決め込んで、冷蔵庫を開ける。
 「チーズ、もらったぞ」
 背中から事後承諾が投げられた。たしかに買い置きしたチーズが少なくなっている。それは自分のために買い置きされているのではないから腹はたたない。それよりも、ここで断固として問うならば別のことだ。
 「…お前、まともにメシ食ったのか?」
 ついでにゴミ箱を覗いてから尋ねた。ミネラルウォーターのペットボトルが2つ入っているだけで、ほかのゴミは見あたらない。ペットボトルの消費具合から推測するに、今朝自分が出かけた時間の直後くらいからこの部屋に居たらしい。
 5秒待ったが応答なし。
 しょうがねぇなとつぶやいて、再び冷蔵庫を開けた。
 「2択だ。アンチョビとトマトのスパゲッティかカルボナーラ」
 返事がくるまでにパスタ鍋に水を張って、火にかけた。
 絶え間なく鳴るキーボードの音はまるで変調曲のようだと思いながら、手早く作業を進めていると、ふいにリズムが途切れた。
 「アンチョビトマト」
 「了解」
 そう答えるころには、下ごしらえが出来ていた。

 「ご馳走さま」
 不遜を絵に描いたような男だが、躾だけは行き届いている。
 空になった皿を下げながら、パソコンに戻りかける相手に言葉をかけた。
 「なんでここで仕事してるんだ?」
 実家に帰った方が三食ついてラクに決まっている。
 「メシがついてお前がついてラクして得だからに決まっているだろ」
 「…得か、それ?」
 洗い物の手が止まる。
 「黙っていてもメシが出て、俺好みの食材が勝手に冷蔵庫にあって、いつのまにかちらかした資料を掃除してくれる。得だろう」
 立て板に水の勢いでお得さ加減を自分勝手に言い尽くす。もはや返す言葉をなくした。
 洗い物をきれいに片して、さっさと風呂に入るに限る。風呂から上がるとまだパソコンが頑張って曲を奏でていた。その喧噪を避けるようにベッドの中にもぐり込む。
 ゆっくりと体温と温かみがベッドの中に広がってゆくころ、パソコンの音が止まった。
 「…ん?」
 でかいガタイに合わせてキングサイズのベッドに重みが加わる。
 「もうすこしつめろ、落ちる」
 勝手に入ってきて、すばらしく勝手な言い草だが、もはや眠気で何も言う気になれない。すこしずれると落ち着いたのか、肩のあたりに頭をつけて眠り出す。
 「…本当に、得なのか?これが」
 お互い親のおかげで身長が180センチは超えている。わざわざ手狭なベッドで寝なくてもいいだろうにと思ってしまう。
 「あったかいだろう?」
 もはや人間湯たんぽ扱いだ。
 「それにお前の傍が一番落ち着く…」
 どんな顔で言ったのか見てみたくて、目を開けるとすこやかな寝息を立てていた。
 「口の減らない抱き枕だな」
 とりあえず落ちないように抱き寄せると温かい体温がじわりと広がる。
 この穏やかなぬくもりはたしかに得かもしれない。

-END-




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