キモチ



 ピッ、と軽い音を立てて、携帯が涼介を呼ぶ。
 珍しいくらい静かで穏やかな夜勤の医局で、小さなそれを引き上げると画面にはメール受信を知らせるメッセージが浮かんでいた。
 こんな時間に送られたメールを指でたぐると、愛しい名前が飛び込んでくる。

 啓介、と短く示されたソレを開けようとして、指が止まった。
「悪い、ちょっと出てくる」
 医局にいる同僚に一言断ると、上着も持たずに歩き出す。
「なんだ?女からかぁ〜?振られないようにがんばれよ〜」
 的外れだがそれほど遠くない揶揄で返された了解。妙に背中がくすぐったくて、涼介は振り返って手を上げた。かすかに頬と耳を色づかせて、わずかに綻んだ唇がありがとうと動く。
「…アイツにあんなカオさせる女ってどんなコかねぇ…」
 するりとネコのような身のこなしで涼介が暗い廊下に消えると、もどかしそうな足音だけが遠く響いた。


 アニキ、元気?
 さっき、やっと取材から開放された。
 レーサーになって、地道なトレーニングよりつらいのが取材。
 「理想の女性のタイプは?」なんてバカなこと聞かれるんだぜ?
 全然クルマと関係ない仕事がここんとこ続いてる。
 こんなことで、貴重な時間潰されるとあったまくるな。
 だって、この取材がなかったらアニキのカオ見に帰る時間があったんだぜ。
 次のレースの後には、ぜってーそっちに帰るから。
 ちゃんとメシ食って寝てくれよ。


「仕方ないヤツ…」
 だってよ〜…と咥えタバコでふてくされる顔がふいに頭をよぎった。
 サーキットを疾走する勇姿からは想像つかないほどのあまったれは、最低でも3日に1回の割合で日記のような言葉を送ってくる。どんなトレーニングをしているとか、テスト走行の感触など。自分から遠く旅立ったのに、なにかと兄に報告するクセは毎晩涼介の部屋に飛び込んできた頃のままだ。
 同じ日本国内にいるが、ふいに転がり込んだシートに座った途端、啓介は忙しくなった。啓介がテストドライバーとして所属していたチームの正ドライバーが、大きなクラッシュで戦線離脱した。そのかわりにレース本選に引っ張り出され、入賞したからだ。そして、レースも残り数戦を数えるころには、チームのコンストラクターズポイントにいくばくか貢献し、来期には他のチームから招聘を受けるまでになっている。
「別にむりして帰ってこなくても…」
 夜の闇の中で明るくともるディスプレイが、しょんぼりと消える。まるで啓介が気落ちしたかのように思えて、涼介は思わずボタンを押した。


 お前を退屈させた取材でも、この前の雑誌の記事は結構おもしろかった。
 それと忙しいなら、あまり無理して帰ってこなくてもいい。
 次のレースもがんばれよ。テレビで観戦するから…


 少し打っては、止まる指。言葉を指で探り、文字にする。
 もどかしく指が動いて、それでも一番言いたいことは、なんだか文字にすると奇妙な感じがした。そばにいたときにはあまり感じなかった感覚。啓介とこうやってメールのやりとりをするようになって気づかされた。どんな言葉にしてもうまく伝えられない気持ちがある。「がんばれ」と言いながら「無茶するな」と言う気持ちのように、言葉が揺らぐ。
 啓介のくれる優しい言葉とキモチほど、うまく心を返せない。そばにいたときのように、まっすぐに向かってくる啓介の気持ちほど表すことができなくて、もつれるように文字をたぐる。もどかしくて遠くてたまらない感情すら乗せられない。
 また上手く伝わらない言葉をなんとか送って、涼介は冷たい夜風を胸にしまい込んだ。優秀だと言われているはずの頭だが、夜気にしん、と冷える頭の中は思うほど使えない。
 医局へ戻ろうとゆっくり歩き始めた頃、ピピッと携帯が騒ぎ、涼介を急かせた。
「アニキ?」
「啓介?!」
 急患かとあわてて通話ボタンを押すと、二ヶ月ぶりに聞いた声が飛び込んできた。
「ちょっと今いい?」
「構わないが…まだ起きていたのか?」
 うん、まぁ…なんて啓介は曖昧に応えて、メールで伝え損ねたことがあってさと繋いだ。
「アニキ」
「なんだ?」
「愛してるよ」
「…」
 いつだって、間違わず向かう言葉。こみ上げた温かい気持ちが白い吐息になって、夜に解けた。
「啓介」
「ん?」

「愛しているよ」

「…アニキ、オレを喜ばせすぎ。あ゛〜、オレ次の帰りまで待てない!」


 ちょっとは伝わったらしい。


-END-




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