なにかが、まるで期日を迫るかのように近づいてくる感じがする。 雲間が切れて、月が煌々と照らす。深夜にもかかわらず、くっきりとFDの影ができたアスファルトに視線を落としていた啓介は、ついと顔を上げた。つられて、くわえたタバコの煙も上向きになる。 日が落ちるまで降っていた雨のせいで、残暑の季節だというのに、峠は肌寒いほどだった。しかし湿気は残り、上げた髪が落ちてきそうなほど濃厚な大気だ。それが先ほどから気にかかり、何度も掻き揚げている自分に啓介は気付いた。峠で髪のセットを気にするなど、あまりない性格の彼がそんなことをしているのは、気がそぞろになっている証拠だろう。 「啓介」 呼ばれて振り向くと、兄を介して知り合った史浩がいた。この春に結成され、その走りの通り急速に成長したレッドサンズを支える人物だ。何か尋ねたい風にしている彼の言いたいことは、啓介にも容易に想像できた。 「・・・アニキならまだ来てねぇよ」 少し意外そうな表情を浮かべて、史浩は啓介に近づいた。「機嫌悪そうだな」という言葉とともに。 「・・・ンなことねぇよ」 「そのタイミングが証拠だよ」 喉だけで笑い、史浩はもう一度言った。 「やっぱり悪いよな、機嫌。喧嘩でもしたか?」 あえて抜かされた主語が解らないほど馬鹿ではない啓介は、複雑な気持ちで返答する。認めたくはないが、確実にイラついてはいた。その原因は史浩の予想とは違っていたが、彼の指す人物に関係することだったからだ。 「してねぇよ。・・・今日は、あンま乗れてねーから」 最もらしい理由に、史浩は半信半疑の視線を投げかけてから、別のことを口にした。 「そうか・・・。じゃ、涼介に連絡くれるよう言ってくれよ」 今日は早い時間に帰ってしまう史浩は、啓介に軽く挨拶すると、愛車に乗り込んで峠を下って行った。一人残された啓介は、吸殻を片付けた後もしばらくその場に佇んでいた。 このところの焦燥感を落ち着かせるように。 啓介の兄、涼介は単位を取り溢すこともなく学年を上がっていっていた。峠へ毎晩のように繰り出し、「レッドサンズ」なるチームも結成しているにも関わらず。 実家が開業医であり、医学部で学ぶ兄はほぼ迷うことなく医者になるであろう。強制したわけでもないが、両親を含めた周囲はそう思っているはずだ。そして本人さえも。 もう来年は専攻学科へと進むところまで来ていた。選ぶ専攻は決まっているようで、まだ半年ほど前だというのに、すでにその学科で何を研究するのか思案中らしい。これまで以上に意味不明な題名の学術書が部屋に転がっていた。 つい先日、夕食後の居間に家族四人がそろうという年に何回あるかないかの場面。貰い物の果物だかを母が食後のデザートとしてリビングのローテーブルに出し、ケーブルの24時間流しているニュースを父と涼介が見ていた。それは絵に描いたような家族団欒の図で、啓介は少しばかり腰の座りが悪かった。この家庭の息子二人もだいぶ歳が行き、それまで以上に家族全員が顔を揃える機会も少なくなっていて、今更とりたててする話題も思い付かない。 中東辺りの難民問題について解説するキャスターに視線を置いたまま、父は兄に向かって学業について話し始めていた。テレビ画面とはまったく接点のない話題の始まりに、啓介は自分のことではないにしろ聞き逃したほどだ。 涼介の学部における専攻についての話だった。単語部分は理解できても、全体ではやはり何を言っているのか解らない会話をする二人。 兄は国家医師免許さえ手に入れば、いつでも高橋クリニックを継ぐことができる 車によって埋められたと思われていた兄との距離感が、それ自体がまったく意味のないモノに思えた啓介だった。 結局、史浩の伝言を伝えられたのは、3日もたってからのことだった。 普段の講義にプラスして、来年から受ける教授のゼミの強制参加や、これまた来年に備えてのグループ発表の手順研修などが重なったからだ。同じ家にいながら顔を合わせることもなかった。 今の御時世、携帯もあればメールもある。しかし、直接伝えたいと啓介は意地になっていた。 大学の課題に朝方までかかりきりだった涼介が仮眠を取って大学に行く際、ちょうど峠から帰って来た啓介と鉢合わせた。兄にやっと会えた啓介だが、それもほんの1・2秒のことだった。 「アニキ〜、久しぶり〜。・・・史浩が連絡欲しいってさ、言って 「解った。後で電話しておく」 玄関先での会話はそれで終了し、涼介はドアの向こうに消えていった。 どんなに攻めてもハマる動きをしないFDを抱え、啓介は鬱屈を抑えられない自分を感じていた。 走りの問題が一つ解決したかと思うと、別に問題が出てくるのだ。まるでイタチごっこだった。 延々と続くと思われる事態に、ヘドロのように溜まっていった憤懣は啓介の中で変質していく。そして、思考を曲がった方向にもっていくのだった。 「教えてくれる人がいない」からだ、と。 一方レッドサンズの要、史浩は涼介ほどではないにしろ十分忙しかった。大学では来年から始まるゼミの面談があり(人気のある専攻の場合、選考試験が行われるのだ)、それに備えなくてはならなかった。また個人的に交流のある教授と先輩から学会の手伝いを懇願された。間が悪いというのか、より忙しい友人に代わってチームの動向を見ることにもなっていた。 時間をやりくりして峠に来ていた史浩は、とうぜん啓介に捕まっては彼の話に付き合わされた。内容は日により異なっても結論はいつも同じだった。 色々と疲れていた史浩が、それでも責務を果たそうと、涼介から指定されたメンバーに連絡事項を伝達していた時だ。 FDが空いたスペースにやけにきっちりと停車した。車と同じように鮮やかな印象を与えるドライバーが降り立ったが、いつもより精彩を欠いた雰囲気だった。その証拠に近づいて来る歩調がひどく重そうだ。 「ホントーにアニキがいねーと困んだよな〜」 史浩に声が届く距離になった途端に、啓介はそう洩らした。 史浩はここのところ毎日聞かされるセリフに、いささか呆れていた。今までも愚痴を聞かされて困ったことはあっても、うんざりすることなどなかったのだが。ここのところ時間の余裕がなくなり、気持ちの余裕までもがなくなっているのかもしれないと密かに嘆息する。 そんな相手の気持ちなど気付かない啓介は、まだ、聞く人を苛立たせるような間延びした口調でしゃべっていた。 「あー、コーナーんとこ上手くいかねぇしさー。イライラするぜ」 語尾に、チッという舌打ちが入る。 その音がやけに耳に響き、何故か勘に触った。 史浩は自分が今、苛立ちによるシワを眉間に寄せたことを自覚していた。そのちょっとした溝を見て、目の前の人物に緊張が走ったのを感じたが、互いの気分も含めたこの状況を好転できるはずもない。 条件反射のように出てしまった言葉は、やはり相手を煽るだけのものだった。 「それって、涼介のせいか?」 「!・・・・・」 「違うだろ、啓介。・・・言い方キツいかもしれないけど、そういうことは自分で考え 「わかってンだよッ!!」 「解ってるよ」と、自分に言い聞かせるようにもう一度啓介はつぶやいた。 そう言いつつも、本当は何も理解していないのではないかと疑問が湧いた。兄の人生の選択も、自分が感じる苛立ちも、すべて解ったつもりになっているのではないかと。実際、涼介が医者になることに反対する気は毛頭ないし、自分が兄に甘えてることも認識している。けれど「納得」はしていないのだ。だから、本当に理解などしていないのだと思う。二つの意識は溝を深めるばかりで、啓介を苛立たせた。 ただ一つだけ確証を持っていえることは、「このままではダメだ」ということだけだ。今のまま、自分のことを兄に任せるという、依存した考えから脱しなければいけない時期に来ている。 自分が決断しなければいけない時期が。 「啓介・・・」 「・・・ゴメン、史浩」 「・・・・・」 「なんとか自分で、・・・どーにかするよ」 「けい・・・」 八つ当たりしてしまった後のバツの悪そうな表情と、啓介の感情の乱れを心配する表情の混ざった史浩の顔を見て、啓介は唇だけの笑いで返した。次いでFDへと乗り込み、そのまま高速の世界へと突入していく。 何台目かの対向車のライトが突き刺さる。 驀進するFDから逃げるように、すれ違った途端に離れていくそれら。 オレンジ色の点でしかなかったモノが、瞬きをする間に本性を表してネオンになる。本来ならば一本一本違う形に見えるはずの木々の影は、一繋ぎの布のように途切れ目がない。またしてもすれ違った車との間で圧せられた風が、竜巻を起すほどのものに感じる。実際はそんな音など聞こえはしないのだけれど。 走り慣れた道とはいえ、外灯も少ない峠道は真っ暗だ。明かりがなければ、アスファルトも木々もただの闇色でしかない。 行く先も、もと来た道も見えはしない。 兄は、そんなことはないのだろう。計算し尽くしたというわけでもないのに、確実に自分の道を進んでいる。人よりずっと先を見通せ、それに応えられる能力も心意気もある。 誰の目から見ても着実だ。 埒もないことで頭を巡らせていた啓介の視界に、ひときわ鮮やかな闇の道が開けた。 それは、このところ彼がひっかかっている場所だった。 咄嗟に、兄はここをどう走っていたのかを思い出そうとしていた。 クラッチは、ブレーキは、スピードは。 かつて見た白いFCの描いた軌跡の通りに、啓介は動けなかった。 道とFDと自分とが完全に繋がるところではなかったからだ。 そう解った時には、その地点を過ぎていた。しかも、これまでの疑問をクリアにして。 啓介は、叩くようにクラクションを鳴らし、尻上りの口笛を吹いた。いつにも勝るリアクションで喜びを露わにしたのは、問題を解決できたという単純な理由だけではない。 初めて、自分の軌道が解ったように思えたのだ。 啓介が帰宅すると、待っていたかのようにリビングにいる涼介が迎える。 「おかえり。・・・史浩が『啓介に言い過ぎた』と言ってたぞ」 リビングテーブルに置かれた兄の携帯を見て、啓介は少し微笑んだ。きっと明日にでも顔を合わせれば、謝罪されるだろう。レッドサンズの外報部長は、心の底から優しく、きっぱりとした人物であるから。 「オレの方が、だよ。・・・それよりさ、アニキ」 まだ、見えてもいない道だけれど。 「聞いて欲しいことがあるんだ。・・・走りのことで」 自分で作り上げていく。 END |