君が微笑む夜 | |
カツッ。 靴底が床をかむような音が、夜の闇で静まりかえった廊下に響く。 メトロノームのような正確さで、ウェラー卿コンラートは血盟城内を歩いていた。 夜の廊下は所々にともされた灯りが淡く、闇ととけるように小さく揺れる。 時折、窓からこぼれる薄い月明かりが、その闇を差すように照らしていた。 そういえば、と歩みを緩めて窓の外を見つめた。 じゅーごや、おーつきさん、見てはーねる♪ 「なんの呪文ですか?」 不思議な呪文のせいで、あやうくキャッチポール中にボールをとりそこねそうになった。 そんな不安をまったく顔に出さないまま、コンラートはゆっくりと山なりのボールを投げると、子どもの匂いがする魔王が受け止めた。 「十五夜の歌…だったかな?日本では、9月に中秋の名月って言って、月がまん丸の夜に団子作って月に供えてお祭りすんの」 こっちにはないの?という疑問とともにボールが投げられる。 「ないですねぇ…しかし10月なのになぜ歌い出したんですか?」 ほら、とコンラートの頭の上をグラブで指した。ゆっくりと振り向くと淡くふくよかな月が浮かんでいた。 「満月かな?って思ってさ」 朝のやわらかな光の中でぼんやりとした月が取り残されたようにいる。 コンラートは、その淡く白い姿に目を細めた。 「お月見もしないの?」 いつのまにか隣に来ていた声にちょっと驚いて、振り向くと黒い瞳とぶつかった。 「団子は供えませんが、ただ見るだけなら…」 昔、よく見ていましたと言いかけて、言葉が喉にひっかかる。 「ふーん。日本だと月には白いウサギがいて、餅つきしてるって言うんだ」 「ウサギですか?」 「おとぎ話なんだけどね。だから、まん丸の十五夜の月を見て、ウサギが跳ねるって歌うワケ」 「跳ねる?羽で飛ぶんじゃないですか?」 さっきから尋ねてばかりだと頭の片隅で思いながら、双黒の主を見るときょとんとした顔が向けられた。 「え?ウサギに羽なんかないよ?え?」 「鳥ですよ、鵜鷺。頭が黒くて体が白い鳥です」 「えぇ!?地球では、かわいい哺乳類なんだけど。白くて耳がおっきくてこれくらいの…」 どうやらまったく違う生き物らしい。 必死になって説明する彼の顔を思い出し、ふと笑みがわいて夜にとける。静かに窓を開けて見上げれば、雲に隠れた白い月がそこにあった。 ベールのようにかかる雲が時折流れて、月がほほえむように顔を出している。しかし、恥ずかしがり屋な子どものようにすぐに隠れてしまう。 こぼれた笑みの代わりにゆっくりと息を吸い込むと、闇とともに冷たい空気が肺に入り込んだ。 しばらくぶりに眺める月は、昔と変わらないはずなのに、思い出の中のものより冷たく見える。 昔はよく月を眺めていた。 ふたりで。 騒がしい世情が静まる夜に。 ただ並んでたわいもない話をしながら、こんな風な日が続けばいいと祈りながら。 不思議な心地のする時間を分け合えたひと。 せっかくの月夜なのだから、大切な人と見ればいいのに、そう笑っていた。 「薄情な男だと言われているせいかな?」 「誰よりロマンチストだから、たった一人を決めかねているのよ、あなたって」 そうかな?と言うと、必ずこう言われた。 「それと博愛主義でもあるから、誤解されやすいのでしょうね」 姉のような手厳しさを持ちながら、母の優しさをもつひと。 「いつか大切な人と見上げる日がくるわよ」 彼女は月のように淡くほほえんでいた。 誰と見上げる日がこなくてもかまわなかった。いつまでも…。 「あれ?コンラッドお月見?」 振り返ると寝所で寝たはずの主がそこに立っていた。薄い闇を抜けて、かすかな月光の下に現れた彼の黒髪が夜風でさらりと流れる。すると猫のように目を細めてゆっくりと伸びをした。 「えぇ。陛下の話にあやかって」 「陛下っていうな、名付け親のくせに。あぁ、雲がかぶっちゃってるな」 そうでしたとつぶやくとコンラッドはもう一度月を見上げる。さっきよりは雲が薄くなったが、潤んだように輝いている。 「ふしぎだよな…こっちの月は日本の月とは違うんだろうけど、おんなじに見えるんだ」 たしかに、そう思ったことがある。 まったく違う世界なのに、コンラートが向こうの月を偶然見たときにもそう感じた。 「…帰りたくなりますか?」 自分は少なくともそう思った。 地球でたまたま月を見てしまった時に、まるで子どものように、この月をただ美しいと見ていたころに帰りたいと。 「ん〜、帰りたくないかと聞かれれば、帰りたいけどね」 まっすぐ見上げた瞳は夜のように暗いのに、月の光を受けて小さく輝いている。 「だっていきなり居なくなったから、俺って失踪者だよ?完璧に」 …たしかに。そういえば、自分が地球に行った時も眞王廟でウルリーケに事情を聞いた後、突然飛ばされたのだ。 出立前の家族への挨拶とかすべてすっ飛ばして、いきなりメキシカンだったことを思えば、ユーリも同じような状況だったに違いない。 「さすがに家族はびっくりしているだろうしさぁ…テレビなんかに出てきて『ゆーちゃん!出てきて!!』なんてやられちゃってたら、帰った時いたたまれないし。つーか絶対にやりそうだし」 あぁ〜いやすぎる〜と若き王は本気で悶絶していた。その悩みも深刻なのだが、どこか滑稽で笑みがこぼれてしまう。 「他人事だと思って笑ってるな!コンラッド!」 「いいえ〜、大変だなぁと…」 自分が帰ってきた時も、それは大騒ぎだった。 眞王廟から「眞王陛下より拝命がありウェラー卿は旅立たれた」としか連絡が行ってなかったせいで、行方しれずのコンラートは失踪者同然だったのだ。 帰ってきたら、ツェリには泣きつかれ、兄には怒られ、同僚には殴られかけた。 だけど、全員最後には必ずコンラートを抱きしめて、よく帰ってきたとつぶやいていた。なんとも照れくさくて温かい思い出だ。 「みんなユーリが大切だから」 「だからって…ふぇ…ふぁっくしょい!」 派手に奇妙なくしゃみをすると、有利は肩を小さく震わせた。 「そろそろ中に入りましょう。これでは風邪をひきますよ」 つめたくなった小さな肩に手を置いて、中へと誘う。 夜風がコンラートの髪を名残惜しげに撫でた。 誘われるように振り返ると、やっと月が顔を出して柔らかくほほえんでいた。 -END- |