あなたがわたしにくれたもの




  しまった。
 それを一口飲んで、グウェンダルは顔をしかめた。もっとも眉間のシワがほんの少しだけ心持ち深くなった程度で誰に気付かれるものではない。食卓の席上で出された食事に対して、感情を露わにすることなど礼儀に反することだ。
 「グウェンダル?どうかした?」
 夕食の席上で、向かいに座る魔王陛下が不思議そうな顔でそう尋ねてきた。普段はぼんやりというか鈍感なのに、こんな時だけ妙にさといところがある。
 「いや、なんでもない」
 なにごともなかったかのようにグウェンダルは先割れスプーンでスープをすくった。温かくまろやかな味が先ほど飲んでしまったものをきれいに流してしまうように祈って。
 「どうかしたのか?ユーリ」
 末弟がスプーンを握った手を止めてわざわざ蒸し返す。ちょっと戸惑いながらユーリは少しだけ唸って、遠慮がちに答えた。
 「いやさ、なんか飲み物飲んだときにちょっと顔しかめていたから。なんか変なものでも入っていたのかなって思って」
 グウェンダル、好き嫌いしないのに変だなって思っただけ。そんな風に言うと、ユーリはヴォルフラムに慌てて言い訳でもするように手を振った。
 「オレの勘違い。ゴメン」
 その間にグウェンダルは、無言のままスープをすべて飲み干して野菜に手を伸ばしていた。隣に座っていた次弟が銀杯をのぞき込んだ。
 「なんだ?」
 「いや、うまそうな酒だなと思って。グウェンダル、よかったら俺のと交換しないか。まだ口はつけてないんだが」
 にっこりと笑いながら、自分の杯を差し出す。
 「…そんなことせずにお前も頼めばいいではないか」
 グウェンダルが赤みの強い野菜を口に入れると、みずみずしい果肉が口の中に広がる。
 「それが最後なんだよ、その酒」
 珍しい弟のわがままにグウェンダルは無言で杯を渡す。それを受け取ってコンラートは小さくありがとうと応えた。
 「珍しいな。コンラッドがそんなおねだりするなんてさ」
 不思議そうな顔でユーリがちゃかすように笑う。いたずらをからかわれた子どものように少し照れた様子でコンラートが小さく肩をすくめた。
 「思い出の酒なので、つい」
 「思い出?」
 コンラートはもらった銀杯を持ち上げて、懐かしげに見つめた。
 「父が好きだった酒です」
 「へぇ…」
 ヴォルフラムもユーリも食べる手を止めて、コンラートの手の中にある銀杯を見つめる。コンラートは細かく刻まれた装飾の溝の奥にゆれる酒に鼻を近づけて、その香りを嗅いだ。
 「ああ、やっぱりそうだ。よく飲んでいましたよ。飲み過ぎてよくよっぱらってましたが。この酒があるといつも上機嫌でした」
 「あはは…」
 少し困ったようにユーリが笑うと、ヴォルフラムがふんと鼻を鳴らした。
 「酒の趣味はよかったようだな」
 「へ?そうなの」
 「あの酒はシュピツヴェーグ領にある厳選された農園で造られている紅酒だ。たしか少なくとも5年は熟成しないと出荷されない」
 そう、たしかにモノはいい。
 気付かれないようにグウェンダルは短くため息をもらした。だからといって、好んで飲む気にはならない。
 鼻先をかすめる味の締まったような匂いだけで、あの無精髭の憎らしい男の笑顔が浮かぶ。忌々しい思いを押し流すように、グウェンダルは交換したコンラートの杯をあおる。そして、隣にいる笑顔の弟の横顔を盗みみるようにちらりと見た。
 最近、母はこの弟を「あの男」と似てきたとよく口にするようになった。
 そうだろうか?まぁ…何を考えているのか、さっぱり解らないところなどは似てなくもない。剣の腕前は、本人の努力もあるが、たしかに父譲りだ。
 ─グウェンダル。
 ちがう。
 やはり違う。
 低く穏やかに響く声はまるで違う。なにかを強く求めているのに、それと同時になにかを諦めるような背中も。誰も知らない場所を遠く見つめているような目、なによりも寂しげな笑顔がまるでコンラートとは異なる。
 そうだ。俺を見つめるあの笑顔は、いつだってどこか寂しげだった。陽気な酒の席で、下々の者たちとやかましく騒ぎ立て、その中心で楽しげにしていても、時折ふっとあの笑顔が浮かぶ。
 遠い昔のことは、喜びも悔しさもすべて薄闇のようにぼんやりとして儚いものなのに、なぜかあの笑顔だけは鮮やかだ。交わした剣の流れも節くれ立った手も腹立たしいほどに。大きな手はいつも少しざらついて、それでいて温かい。
 くだらない思い出から逃げるように、グウェンダルはすっかり暗くなった窓の外をみた。鏡のように食卓が映るばかりで、その外など伺うことなどできない。先割れスプーンの使い方を巡って議論する陛下と末弟をコンラートが穏やかな笑顔で見つめている。賑やかで、それでいて幸せそうな食卓。そこに場違いなまでに顔色の悪い自分の姿を見つけて、グウェンダルは目をそらした。
 昔も、そうやって窓を覗きこんだことがあった。
 どうかしている。
 もうすべて思い出のはずだ。


 まだコンラートが幼かった頃、グウェンダルはふいに夜中に目が覚めてしまったことがある。喉が渇いていたから、寝所から抜け出して遠くに聞きながら水を求めて廊下をひとりで歩いていた。
 時折遠くから聞こえる笑い声以外は、すべてが息を潜めているかのように静かな夜だった。風もなくて、ひっそりとした闇が窓の外に満ちている。ゆっくりと台所の近くまで下りていく途中で窓に映る自分の後ろに人影を見て、どきりとして足が止まった。よく見るとそれは後ろでなくて、窓の向こうだった。
 松明の明かりに赤々と浮かび上がるマントがそっけなく翻る。肩に大きな皮袋を担いで、ゆっくりとした足取りは裏手の厩舎へと向かっていた。長身の後ろ姿が夜にとけるように消えてゆく。
 あいつだ。
 グウェンダルはどこかが冷え冷えと冴えている頭でそう思った。普段はどこかおどけるように陽気なのに、それでいてつかみどころのない男。
 「人間」だからだろうか?何を考えているのかわからない。得体の知れない不快感を感じた。だけど、剣の腕前は十貴族の誰よりも、いやグウェンダルが知るどの魔族よりも強い。そして、母は見たこともないほど幸せそうに笑いかけていた。愛している。そう言っていた相手だ。
 夜の闇に消えないで、かすかに外套の裾が揺れていた。まるでグウェンダルに手を振るような動きに誘われて歩き出した。階段を下りきって、外へと続く扉を開けると顔を冷たい夜気がなで上げる。思ったよりも寒い。首をくすめたグウェンダルを笑うようにたいまつがバチっと鳴った。
 ぐっと厩舎の方を見据えて、地面へと続く階段へ足を踏み出す。踏みしめた足の下からじゃりっと砂が鳴ったのが思いもよらず耳に響いた。
 さっき見かけた後ろ姿は、見渡す闇の中にすでにない。肩に載せた荷物からすると、どこかへ行くつもりなのだろう。だが、こんな夜中に出掛けるのは、あきらかにおかしい。
 あいつはどこへ行くのだろう?母は知っているのだろうか?
 どこかへ行くならば、戻ってこなければいい。だがそう思った時、母の幸せそうな笑顔が浮かぶ。幸せな笑顔なのに、グウェンダルの胸が軋んだ。
 厩舎に近づくと、扉が少しだけ開けられていた。中をうかがうと、暗い中から人の声がする。
 「よーし、よし。すまないが、つきあってくれ」
 馬の鼻息がぶるんっと聞こえると、かちゃかちゃと固いものがぶつかる音がした。革具を締める音などが忍ぶように厩舎からこぼれると、しばらくして闇の中から蹄の音が外へと向かってくる。
 グウェンダルは、扉から思い切って中へと飛び込んだ。扉から差し込む月の光がうっすらと闇を切り裂いて、わずかな明かりを届ける。それを踏むように男の足が見えた。
 「グウェンダル?どうしたんだ?」
 ゆっくりと馬を引いて、男は驚いた顔をしていた。見開いた目に銀の光彩が月明かりで小さくきらめいている。
 「どこに行く気だ」
 夜気の寒さで足がふるえるのを堪えて、グウェンダルはそう尋ねた。ぐっと歯に力を込めて男を睨む。驚いたような顔をしていた相手は、月の淡い光のようなやさしい目をグウェンダルに向けた。
 「ちょっと遠くへ。それよりもそんな格好じゃ、風邪ひくぞ」
 まるで城下まで行くような気軽さで男は短く答えた。そして、また馬をひいて、グウェンダルの傍を通りすぎて行こうとする。グウェンダルは、踏み出して彼の前に立ちふさがった。
 「母上は知っているのか?」
 母のあの笑顔を思うと胸が痛い。痛いが、悲しい顔はもっと嫌だった。
 「気付いているだろうな」
 知っているとは言わなかった。寂しげにそう答えて男はグウェンダルの頭に手を乗せた。
 「ツェリを頼む」
 グウェンダルは力の限り男の手を払って、これ以上ないくらい睨んだ。
 「お前!ふざけるな!」
 グウェンダルの反撃が意外だったらしい。払われた手が宙に浮いたまま男はグウェンダルを見つめた。
 「そんな風に…母上やコンラートを捨てるのか!」
 あんなに幸せそうに笑っていた母を。その胸に抱かれて健やかに寝ている弟も。この男はそんな二人を愛しそうに見つめていたくせに。それを全て捨てるというのだろうか?グウェンダルの手がかすかに震えていたが、それは寒いからではなかった。
 「愛していても、行かねばならない」
 静かに男の声が響いた。
 「覚えておけ、グウェンダル。どんなに大切な者がいても男は傍にいられない時もある」
 男は少しだけ屈んでグウェンダルに顔を近づける。すると酒の香りがグウェンダルの鼻先をかすめた。
 「だが愛していることにかわりはない」
 生きていればまた会える。そう言って穏やかで寂しげな目がすこし細められた。蜜を溶かしたような男の目の中へ閉じこめられたようにグウェンダルが映っている。
 「それと俺はダンヒーリーだ。名前を覚えてくれ」
 にやっと男臭くて、それでいてどこか子どものような笑顔でダンヒーリーは付け加えた。
 「誰がいちいち覚えるか!」
 わざわざ名前を呼ぶことなどないのだ。勝手に城から出ていって、母を悲しませるのならば「お前」で充分ではないか。恨みがましくにらみつけるグウェンダルを気にも留めず、ダンヒーリーはあごひげに手を当てた。その表情はいたずらでも思いついた子どものように無邪気なものだった。
 「ふむ。なら覚えてもらおうか?」
 「な…」
 ダンヒーリーの手が手綱を放してグウェンダルの首の後ろにまわった。強くその手がダンヒーリーの方へと引きつけられて、グウェンダルはとっさに腰がひける。その弱気な腰に片方の手が添えられて、攫うように抱き寄せられた。
 顔がぶつかる。そう思ってぎゅっと目を閉じたグウェンダルの唇にやわらかなものが触れた。痛みもなく、それどころかくいしばった歯をなにか柔らかなものがこじ開けてゆく。
 「ん…」
 顔に固いものがちくちくと当たるのを感じながら、息が止まるほど舌を吸われ、からみつかれる。口の中に果実の味と酒のくゆるような香りが広がった。
 体の奥がざわめくような感覚がはい上がる。自分の体がなにか変わっていくような恐怖を覚えて、グウェンダルはダンヒーリーの腕を握りしめた。
 「…っ」
 頭が溶けるようにぼうっとした頃、冷たい空気がグウェンダルの唇にふれる。力の抜けた足が冷たい地面にぶつかって、その痛みでグウェンダルはダンヒーリーが離れたことに気が付いた。見上げたところに精悍な笑顔とぶつかる。
 「これで忘れないだろう?」
 満面の笑顔でダンヒーリーが胸を張る。その言い草にグウェンダルは声を上げた。
 「なにを考えているんだ!」
 「いくらなんでもキスした相手の名前は忘れないだろ?」
 よっぱらいの言い草に怒りが収まらなかったが、ダンヒーリーは気にせず自分の羽織っていたマントを外すとグウェンダルに掛ける。ふわりと温かい熱とさっきまで身近に感じた香りがグウェンダルを包んだ。
 「風邪ひくぞ。はやく部屋に戻れ」
 ダンヒーリーはそう言うと、再び手綱を取って外へと出ていった。
 「待て、コレっ…」
 なんとか足に力を入れてグウェンダルが立ち上がって見ると、厩舎から出たダンヒーリーは馬の後ろにくくりつけた荷物からずるりと大きな物を引き出した。
 「もう一枚ある。気にするな」
 涼しい顔でそれを羽織ると鐙に足をひっかけて、馬へ飛び乗った。ゆっくりと馬がしっぽを揺らして、たいまつが照す道を歩きだした。まだ口の中には深く立ち上るような味が残っているのに、ダンヒーリーは闇の中へと消えてゆく。
 結局、グウェンダルはダンヒーリーのマントを握りしめたまま、蹄の音が聞こえなくなるのでそこに立ちつくしていた。


 「ごちそーさまでしたッ!」
 元気な少年の声でグウェンダルは、ふいに我に返った。
 「あーうまかった。なぁ、コンラート。ちょっと食休みしたらキャッチボールしない?」
 「いいですよ」
 「また『きゃっちぼーる』か?こんな暗い中でやって、なにが面白いんだ。この尻軽」
 みんながいっせいに食卓から離れて扉へと進む中、グウェンダルは一足遅れて席を立った。
 「ん?」
 立ち上がった時に、食卓の上に残された銀杯が目に飛び込む。コンラートに上げた酒は少しも減らないまま、そこにあった。
 「あいつ…」
 あの優しい少年王のように気付いていたのだろう、コンラートは。職務上、魔王陛下のいるところで彼が酒を口にすることなどないはずなのだ。爽やかに笑う弟の顔を思い浮かんだが、血のように紅い酒の中で揺らぐとそれは懐かしい面影に変わる。グウェンダルはため息をついた。
 「さすがに…覚えたな」
 深く澄んだ赤い酒の底をグウェンダルは睨むと、一気に銀杯をあおる。清々しく広がる味は、果実のみずみずしさと同時に落ち着いた深みのある味へと変わる。
 そう、この味だったな。
 懐かしい笑顔を瞼に隠すように目をとじる。
 100年ぶりの味はどこか切なかった。


-END-




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