美しい人、ここにいて | |
かさっ。 コンラートの足下で乾いた葉が軽い音を立てて鳴いた。毎朝走るこの道を彩る枯葉が増えてゆくように、「彼」のそばにいる時間も増えた。雨の日以外、魔王陛下はロードワークを欠かさない。 「だいぶ寒くなったなー…」 たしかに吐く息が白くなる日も増えた。 「寒いですか?」 風邪など引かせたら大変だ。横を走る彼を見ると、笑顔がかえってきた。 「これくらい平気、平気」 そう言う彼の頬は、まだ冷たい朝の空気のせいで、いつもより赤く色づいている。つるっとした肌のせいか桃のようだとぼんやりと思った。 まだ甘い匂いがするのだろうか? 遠い日に一度だけ抱き上げ時に覚えているのは、温かさとやわらかな感触。そして赤ん坊がもつあまい香りだ。 「あれ?なぁ、コンラッド。あの白いのは何?」 ランニングコースから外れた眼下の森の中に、そこだけ雪でも降ったように白く色づいているところがあった。深い緑と枯れた黄色、そして赤い葉に交わることのない白は際だって見える。 「あぁ…あれは、この時期に咲く花ですよ。…もうそんな季節か」 冬の前に、その季節の訪れを告げる白い花。思わず冬の寒さを思い出して、コンラートは目を細めた。 「なに?なんか変な花なワケ?」 あんなに綺麗なのに…と呟くと、漆黒の瞳が惜しむように白い花を見つめた。 「変ってことはないですよ…ただ、あの花は冬の直前に咲くんです。あの花が咲くと冬の訪れをみんな嫌でも感じるだけですよ」 「へぇ…季節を告げる花なんだ。見た目、桜みたいだけど」 「サクラ?」 さすがに眞魔国にない単語だった。 「うーん…英語だと…チェリーブロッサム?」 聞き取りづらい発音だったが、近い言葉を口にしてみる。 「cherry blossom?ワシントンにありましたね」 「そう!見たことある?」 「残念ながら、ほとんど散った後だったので」 ようやく寒さのゆるんだポトマック川の岸辺が、花びらの絨毯のようになっていたことは覚えている。そういえば、サクラは春を告げる花だとロドリゲスが言っていた。 「残念。すっげー綺麗なんだよ。んでもって、日本人はその桜の下でお花見するとようやく『春だー!』って気分になるんだけどね。眞魔国には、春を告げる花の木ってないの?」 ハナミ…そうだ思い出した。正しい春の過ごし方だと言って、ロドリゲスがホットドックを買って、二人でなぜかその桜の下にあるベンチで食べたことがあった。 『本当の花見は酒飲んだりしてパーティーするんだけどね』 どうやらそのことらしい。 「春を告げる花の木…色々咲きますけど、この花のように意識されている特定の木はないですね」 「じゃあ、花見ってしないの?」 有利がちょっと残念そうな顔をする。 「しないですね。しかし風流な習慣があるんですね、日本には」 「行事が多いだけだよ」 そう言うと、有利が再び走り出した。それに追いつくと、横から声が飛んだ。 「でも、綺麗なんだぜ。桜吹雪って」 サクラフブキ? 「もったいないよな、あの花だって綺麗なのに」 日本には冬の厳しさも喜んで受け入れる気持ちがあるのだろうか?ちらりと目を横に走らせると、有利の白い息が淡く朝の空気に溶けてゆくのが見えた。 あるのかもしれない。彼を見ているとそんな気分がしてきた。その凍てついた冷たさごと、きっと愛するのだろう。そう思うと、この白い息も悪くない。 冷たい朝の空気が温まるころ、急遽コンラートの元に仕事が舞い込んだ。血盟城下で通り魔が出たという。どうやら加害者が魔族で被害者が人間らしい。 「すまんな」 ノーカンティが不満そうに軽くいななくと、グウェンダルが彼女をなだめるように首筋に手を置いた。 「構わないさ。それよりも陛下を頼む」 「ああ。それは任せろ。たぶん政治的な意味合いはない事件だと思うが、血盟城下での殺傷事件とあっては見過ごすことはできない」 「グウェンダル。陛下にこのことは…」 「解っている」 コンラートの言葉を短く遮って、グウェンダルが答えた。渋い顔が少しだけゆるんで、唇の端が小さく上がる。 「とはいえ、お前が早く帰ってこないと不審がるぞ」 つまり、早く帰ってこいということだろう。 「ああ、解った」 このところ、ぶっきらぼうだった兄がこんな風に温かい表情を見せるようになった。スヴェレラを砂漠と化した太陽は、彼の心も溶かしたのか。 いや、違うな。きっと今ごろ執務室で書類と格闘しているだろう彼の顔が浮かぶ。冬の寒さも愛する心をもつ人は、きっと頑なな心も優しくするのかもしれない。 コンラートはくすぐったいような温かな気持ちでグウェンダルに挨拶をすると、ノーカンティを走らせる。切るように流れる風は冷たいが、日差しがコンラートの背中を温め続けた。 部下とともに城下へ降りたコンラートだが、思いのほか事件が早く片づき、夕方になる前に帰城することが出来た。太陽がゆっくりと傾き始める中、一緒に働いてくれたノーカンティを厩舎に入れる前に水を飲ませると、せわしない足音がしてコンラートは振り返った。 「ウェラー卿!」 白い頬を上気させて弟が駆け寄ってきた。 「ユーリを見なかったか?!」 「陛下?いや…何かあったのか?」 「あのへなちょこ、突然どこかに消えたんだ。まったく…」 消えた? 「向こうに帰られたんじゃないのか?」 「ユーリは執務室から消えたんだ。周りにあった水は、コップの中くらいだ。ちょっと目を離したスキに部屋から出たらしい」 忌々しく前髪を押さえて、ヴォルフラムが答えた。ここに戻ってくる道筋で会わなかったということは、城下よりもまだ城内にいる可能性が高い。 「ヴォルフラム、俺は外を捜すからお前は城内を頼む」 そう告げるとコンラートは弟に手綱を渡して走り出した。 「そんな闇雲に…って、おいッ!」 遠くでヴォルフラムが怒鳴っていたが、振り返らずにコンラートは走った。有利がこの城外で知っている場所には限りがある。まずはいつものランニングコースを辿ると、白いものが視界の端にひっかかった。 ─綺麗なのに。 そう惜しむ声が聞こえる。 ─もったいないよな。 白い花に呼ばれるように足を向ける。土手のように高くなっている道から降りて、木立の前まで来た時、森の中から枯葉が小さく鳴く音がした。 「あれ?コンラッド戻ってきたんだ」 手に袋のようなものを持った魔王が笑顔で森から出てきた。ほっとした気持ちに肩から力が抜けて、コンラートは大きく息を吐いた。 「戻ってきたんだじゃありませんよ。お一人で出歩かないでくださいと言ったはずです」 「ゴメン。ちょっと取りたいものがあってさ」 申し訳なさそうに有利は謝るとコンラートの傍に寄った。ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。昔嗅いだ匂いとは違うものだが、さわやかな甘い匂いだ。 「あ、コンラッドはそのままソコにいて」 有利は、コンラートの傍を通り過ぎて、小さな土手を登る。 「陛下?」 「そらっ!」 不審に思って、振り返ったコンラートの上に雪が舞う。…違う、白い花だ。白い花弁がひらりひらりと雪のように降り注いだ。 甘い香りとともに光の中で踊る花びらに言葉を失って立ちつくす。青空から降る祝福を受けるように、コンラートは無意識に手を伸ばした。逃げるように舞う花の中でひとつだけコンラートの手のひらに収まる。たったそれだけなのに、心に灯りがともるような温かさを感じた。 「な?きれいだろ、桜吹雪」 いたずらが成功した子供のような笑顔で有利が笑う。そして、袋の中に手を入れて空いっぱいに花を咲かせる。白い花が光の中でコンラートに笑いかけるように降り注ぐ。冬の美しさに満ちた中で有利が太陽のように眩しく笑った。 その光に目を奪われながら、白い花がひらりひらりと踊る。厳しさだけではない、冬を告げる花のもう1つの顔に、これまで気づかなかったのが不思議なくらい美しい。 白いと思っていた花は、太陽の下でよくみると、うっすらと色づいている。まるでその美しさを褒められて恥じらうような色合いだ。そのまばゆさに目を細めながら、コンラートは手の中の花をそっと落とさないように優しく閉じた。 「きれいです」 「だろ?もーこれで最後だっ」 有利は両手いっぱいに袋の中身をつかむと、空へと放つ。風に乗って、花びらが広く散る中、コンラートは有利に近づいた。 「せっかく桜を見たのに、一番いい時を逃したっていうからさ。コンラッドに見せたくて」 きらきらと輝く瞳に穏やかに笑う自分が映っている。彼の目に映る世界もこんなふうに輝いているのだろうか。 「まぶしいくらい、きれいです」 「そんなに喜んでくれたなら、これから怒られてもいいや」 彼の髪に残るいくつも花びらがなんだかうらやましくて、思わず髪に触れる。 「ユーリがね」 命の輝きを放つ彼を見ていたら、ついそう言ってしまった。 「な、な、なに言ってんだよ!先に行くからなッ!」 有利は耳まで真っ赤な顔をすると、慌てて土手を登ってゆく。その髪からこぼれるように花が落ちた。コンラートは風に乗って揺れるそれを捕らえると、うっすらと色づく花びらに唇を寄せて微笑んだ。 -終- |