Shampoo



「やっだ、啓兄ぃってば、こんなの使ってたの?」
「…なっ!!なんで、んなモンをお前が持ってんだよ!!!」
 イスを蹴っ飛ばして、啓介がロケットのように緒美に飛びかかる。
 きゃあ、涼兄ぃ!助けて!
 子猫みたいにじゃれあう従妹と、弟。
 緒美は、ガーベラのような笑顔で、手に握る青いハナを奪われないように、啓介の手をするりとかわす。まるで風に踊る蝶のようにかわしていたが、ついにつかまりかけた。
「涼兄ぃ、パス!」
 ハナがくるくる回って、涼介の手に落ちる。
「…緒美、よく見つけたな」
 使い古した、子ども用のシャンプーハット。思っていたよりも、小さなそれを親指で撫でる。涼介の耳に舌ったらずの声が聞えた。それは―

「シャンプー、や」
 今よりも高い、啓介の声。小さい頃の涼介の悩みは、弟のシャンプー嫌いだった。
「シャンプー、やだもん」
 目に入って痛いと、啓介はよくごねる。洗っている最中に目を開けるなと、涼介が注意しても我慢しきれない。暗い暗い中にひとりになるから嫌だという。そんな小さな闇など既に怖くなくなった兄は、汗をかく風呂釜の奥で茹で上がる弟を見つめた。
「アタマくさいと、遊んでやらないぞ」
 涼介の言葉で、浴室いっぱいに、啓介の声がセミのように響いた。いやだとしか言わない啓介に、涼介は子どもながら、何度もため息をついたものだ。母は、そんな息子たちに苦笑をこらえながら、風呂上りの兄弟の体をやさしく拭いた。頼まれた「仕事」を果たせなかった涼介は、何度も「仕方ないわね」と母に言われながら、うなだれて首筋を小さく痛めた。

 それからも啓介は何度も泣いて、涼介はとうとう「もう啓介とお風呂に入らない」と爆発した。
「涼ちゃんに、魔法の道具をあげよう」
 爆発した翌日、母は涼介に魔法の道具を渡してくれた。
 青いシャンプーハット。
「これで、啓ちゃんの頭を洗ってごらんなさい」
 もう大丈夫。
 信じきれない涼介に、母は笑顔で保証した。
「にいちゃんにだけ、ずるい」
 啓介が、「魔法の道具」を見て、ふくれる。
「これはね、涼ちゃんが啓ちゃんとお風呂に入ったときにいっしょに使うのよ」
 母がそう言うと、あんなに泣いたのに啓介は兄の腕をひっぱって、一緒に風呂へ入りたがった。そして、啓介に母さんのくれた魔法の道具をかぶせると、涼介は教わった呪文を唱えだす。
「それを被っていれば、水が目に入らないんだぞ」
 風呂桶に入れたお湯をゆっくりと啓介の上でひっくり返した。
「たきみてー!にぃちゃん、滝やって!やって!」
 啓介はテレビで見た滝修行の真似をして、はしゃぎまわる。シャワーを当てれば傘だと喜び、河童みたいだと言えば、風呂釜の中で泳ぐ真似までする。そうして、風呂から上がるまで青い帽子をかぶり続けた。  母がくれたプレゼントは魔法の道具と、浴室いっぱいに満ちる笑い声。
 それから、またふたりでお風呂に入るようになって、今度は上がるのを嫌がった。

 母さんはすごいよな…
 いつも仕事忙しい母との数少ない小さな思い出。喉がくすぐったくて、涼介の口はしがほころんだ。啓介の腕につかまった緒美が、懐かしいでしょ?と笑う。
「啓兄ぃってば、あんなの使ってたんだねぇ」
 緒美が、啓介の腕の中で笑いながら顔を上げた。
「もーつかってねよっ」
 なんなら、お前にやるよと言うと、緒美の頭をぐしゃぐしゃにひっかくまわす。
「まだまだ、おこちゃまだもんな。こんど洗ってやろうか?」
「いらないもん!啓兄ぃのえっち!!」
 なーにが、エッチだガキ!
 広い居間にあたたかな声が満ちる。啓介と緒美のじゃれあう声を聞きながら、涼介は小さなシャンプーハットに指を滑らせた。ずいぶん使い込んで、すこしくたびれた花。しかし、小学校に上がるころには、啓介は自分で頭を洗えるようになった。もう小さな闇に怯えたりしないだろう。
 この一年で、ぜってーアニキより速くなってみせる。固く前を見据えた視線が、どんな闇をも挑むように貫いた。プロになる、そう言うようになってからは、嫌がっていた理論勉強も積極的になった。
 風呂釜の中で泣く子どもはどこにもいない。そう思うとあたたかい胸にひろがりながら、小さな苦みにほんの少しだけ、眉が動いた。


「…けっこう、使ったよなぁ…」
 啓介は、自分の呟きが大きく聞えてびっくりした。緒美が帰った後の居間は、冷えたように静かだ。夜の空気をわずかに含んだ風が、ゆっくりと部屋に入り込んだせいかもしれない。騒がしい従姉妹を送ってゆく役目を兄に任せて、啓介は片手で拾い上げたそれを自分の頭の上に落とす。幼い日、何度も頭にはめた帽子は、もう啓介の頭には入らない。あきらめて下ろしたが、ゆっくりと花びらを指でなぞる。
 懐かしいそれは、いつも兄とともにあった。

 もっと泡たてて!!
 よくアニキにねだっては、はしゃいだ。兄と入るお風呂が大好きで、一時間もねばったことがある。泡だらけになって遊んだが、小学校に上がるころには自分で頭を洗えるようになった。目をつぶっても、もう怖くない。
「見えなくても、オレはいる」
 頭を洗うほんの短い時間、小さな闇の中で何度もアニキはそう言って自分の足をつかませた。見えなくても、アニキはいる。手のひらの集まる体温が何度もそう言った。そばにいないように見えても、一緒にいる。そう思ううちに、いつのまにか闇は怖くなくなっていた。この先もずっと、どんな闇も怖くないだろう。
 浮かびあがるように大きく高鳴るエンジン音が、啓介の耳をかすめる。誘われるように目を閉じれば、闇を裂いて白い軌跡を描く車がいつも浮かんだ。


「啓介」
 懐かしい思い出の上にある啓介の体温に、大きくて温かい手が重なる。
 久しぶりに洗ってやろうか?
 耳の近くで、背中からやさしい声が囁いた。ゆっくりとふりむいて、唇で涼介を捕まえる。啓介は目を閉じて、確かめた。




「アニキ、泡たてて」



-END-





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