死せる世界の涯で 1 | |
「おはようございます、陛下」 それがオレの朝のはじまり。晴れた朝でも雨の朝でも穏やかな声がオレを起こす。 「…ん〜、陛下って呼ぶな、名付けお…ふぁ」 頭のはじっこがねむいせいか、あくびがもれてふぬけた声になる。朝日もまだあがったばかりでどこか日差しがやわらかい。目にはちょっとまぶしくて隠すようにこすると、コンラッドがやんわりと笑って止める。 「すみません、つい癖で。ユーリ、あまりこすると目が痛むよ」 100歳にも達すると15歳のオレなど、よちよちの子どもにみえるのだろうか?コンラッドは時々過保護すぎる。大丈夫だよといって、なごり惜しいけどベッドから降りて、ランニング用の服を着る。寒い朝は嫌だけど、朝の空気で体がきゅっとしまる感覚は好きだ。こう身がぴしーっと引き締まって、ついでに体が引き締まってくれるような錯覚がするし。 ふと、視線を感じて振り返るとコンラッドと目が合った。あまり筋肉がついてない体見たっておもしろくもないだろうに。つーか、筋肉隆々でもあまり野郎の体は嬉しくない。 「なに?」 「すこし筋肉ついたんじゃないですか?」 そういって二の腕あたりをつかみ出す。たしかにこっちに来てもバット代わりに剣で素振りしているから、ちょっとはついたかもしれない。いや、ついてて(希望)。 「練習用の剣、すこし重いものに変えた方がいいかもしれませんね」 「まだいーよ。確かにすこし慣れてきたけど、十分だって」 たしかにあのプロ仕様の木製バットな練習用の剣に慣れてきたけど、だからってすぐに変えても体がついていかなそうだった。腕力のことを考えると急ぎたいけど、ブレーキ踏みながら調整しないと体がついていかない。第一素振りは、重たいものに替えてよくなるものでもない。 「アレで剣術の練習してないってグウェンが知ったら怒るだろうな」 眉間のシワがぐっとレベル7くらい上がりそうなグウェンの顔が目に浮かぶ。 「たしかにね…でも無理しなくていいよ」 優しい言葉と優しい声。掴まれた腕からは温かい体温がひろがっている。どんどんそこに体温があつまっていくように熱くなる。最近、コンラッドに触れられるとこんな感じになる。そして、そんな時のコンラッドは無駄なくらいさわやかで、オレはその笑顔から逃げ出したくなる。 「そういうことは、こっちにまかせて下さい。…その代わり執務がんばって下さいね」 こればっかりは代わりにできませんからと言って、コンラッドはにこやかに微笑むと二の腕を放した。途端に温かかった熱が消えるように冷える。 うぅ…いやなこと思い出した。昨日終わらない書類の山をかなり残して寝たから、また今日もサイン責めのはずだ。 「とりあえずガンバリマス」 なりたくてなったわけではないけれど、王様稼業は「宿題は自分の手でやらないといけない気持ち」に似た気分がする。ため息を隠すように上着を着込むと、いつものように走り出した。 そして、オレはやっぱりサイン責めに合った。朝ご飯の後、ずっと2時間ほどなかなか読めない書類と格闘しながらサインをしてゆく。具体的な政務はグウェンダルとギュンターがしてくれているが、一応どんな内容なのかくらいは知っておきたくて、指で触って読んだり、それでもわからない場合は聞いたりしている。そんなこんなでさくさく進まないながらも40くらいの案件に汚い字で署名していた。 こんなにサインを求められる高校生は、ジャニーズJrかオレくらいだろう。アイドルのサインはぐにゃぐにゃ〜と書いてもキャーって喜んでもらえるだろうけど、オレのこの汚い字で喜ぶのはギュンターくらいだ。 「…なぁ、コンラッド」 オレのすぐ傍で、壁にもたれて警護している彼の足を視界のすみっこで確認しながら、声をかけた。 「なんでしょう?」 「今、思ったんだけど、こっちには「ハンコ」ってないの?」 「ハンコ?」 「象牙とかに名前を彫って、朱肉をつけて押す…印鑑!印鑑ってないの?」 「ああ、sealのことですね。ありますけど国王御璽は国家間の公式文書に押します」 「…個人では使わないの?」 「偽造されたら困るので」 なーるほど…しかし、つまりはこのサインづくしフルコースから免れないということであり…。オレはがくっと肩を落とした。 「いいアイデイアだと思ったんだけどな」 頭の上で軽く笑う気配がする。馬鹿にしたような笑いじゃなくて、自然に微笑むような温かさを感じるような笑いだ。男のほほえみなんてあんまりしまりがないと思っていたけど、コンラッドの場合は違う。見る人をほっとさせる効果がある。ちょっとマイナスイオン発生しているような感じだ。 だけど、最近はその笑顔のままでオレを見ていたりする。そのあったかみあふれる視線を向けられると、なんともむずがゆい気分になるときがある。 「疲れましたか?お茶でも入れてもらいましょうか?」 「お願い…休憩させて」 ちょうどキリよいところで助け船がやってきたので、甘えることとした。ちょっと待ってて下さいねと言うとコンラッドが扉を開けた。 「ふぅ…」 オレは背中からあたる日差しに溶かされるように机に突っ伏した。黒い学ランは、ほどよい温かみをたくわえて、昼寝に最適な環境だ。頭のはじっこで、コンラッドが扉の外にいる番兵にお茶を頼んでいる声を聞きながら、肩から力が抜けてゆくのを感じた。 「陛下?」 遠くでぼんやりとコンラッドがオレを呼んでいる。陛下って呼ぶなと言いたいし、居眠りこいてるのも判っているけど、背中が温かくて瞼がしっかりくっついていて…ごめん、もう少しだけこのままでいさせてくれ。 温かい闇の中に落ちてゆく感覚の中で、髪がさらりと流れる感覚がした。風が吹いてる?窓開いてたっけ?オレはぼんやり思い出そうとしていたけど、寒くないからそのままゆらゆらと闇の中でまどろんでいた。髪が流れる感覚が心地よくてその感覚に身をゆだねていると、消え入るように小さな声がした。 「…ユーリ」 優しくて愛しい気持ちがいっぱいつまったような、くすぐったくなる声でオレを呼ぶ。でも、どこか寂しい感じがするそんな声だった。その小さな寂しさがオレの中に入ってきて、温かい中で体のはじっこがじんわりと痛い。 髪がゆれる優しい心地が温かいのに、どこか寂しくてたまらなかった。 「陛下?そろそろ起きないとギュンターに見つかったら泣きますよ」 ん? ぱんっと闇を破るようにコンラッドがオレを起こした。ぼんやりしながら体を起こすと、そこは執務室で、コンラッドがトレイを片手で支えて立っていた。 「そんなに眠ってないですけどね、はい」 そう言って、コンラッドがお茶を差し出した。熱いから気をつけてくださいねと言いながら、茶うけの菓子を机に置く。 「あ、ありがとう…つい温かくて寝ちゃったよ」 「いいですよ。本当に大した時間じゃないし、ほんの20分程度でしたから。すみません」 近くの椅子に腰をかけたコンラッドが苦笑しながら謝りだした。 「なにが?」 「ずいぶん心地よさそうに寝てたのに、起こしてしまって」 「いいよ。居眠りしちゃったオレが悪いんだし。ギュンターに見つかったら、ホント怒られそうだしね」 見た目は紅茶なのになぜか味は緑茶なお茶をすする。 「いい夢でも見ていたみたいだったから申し訳なくて」 「夢は見てないけど…コンラッド」 「はい?」 オレに呼ばれて、コンラッドが律儀にカップをソーサーへ戻した。 「寝ているときオレのこと呼んだ?」 あの優しくて寂しい声を思い出しながら、尋ねてみた。そばにいたのはコンラッドだけだったし。だけど、あんな風に…あんなものすごく愛おしいってカンジで呼ばれても、ちょっと恥ずかしい。 それでも、どこか寂しい声が気になって尋ねてみた。 「ええ、呼びましたよ」 なにごともなかったかのようにウェラー卿コンラッドが答えた。 えぇ?!あのど恥ずかしい呼び声の君はコンラッド?!ていうかふつーに呼んでよ。ふつーにっ!なんであんな、あんな…あ、あ、あ、愛してるってカンジの愛を込めた声で呼ばなくっても! 顔にかぁと血が集まるような…決してギュン汁は飛び出さないけど、絶対に今のオレは顔が真っ赤だと思う。声にならない言葉が腹の中でぐるぐると回って、口がすっかり固まったように動かない。そんなオレに気にも留めない様子でコンラッドが話し続けた。 「陛下、そろそろ起きないとギュンターが泣きますよって」 はい? …ああ、たしかにそんなことを言ってましたデスネ。オレの肩から途端に力が抜けた。 「それがどうかしましたか?」 「いや、寝ぼけながら…なんか誰かに呼ばれたような気がしてさぁ…」 そういいながら、まだ胸がどくどくと高鳴っている。全然悪いことなんてしてないのに、とっても気まずい感覚だ。誰かに愛しているよって感じの声で名前呼ばれて気になったんだなんて、とても説明しにくくて、なんだか恥ずかしい感じがする。でも、オレはなにも悪いことも変なこともしてないじゃないか、なに恥ずかしがっている、オレ! 「夢でもみていたみたいですね。大丈夫ですか?」 コンラッドが椅子から立ち上がって、なにかを見つけたみたいな顔つきでこっちに近づいてきた。まだばくばく派手に動く心臓が、それに反応して思わずのけぞったけど、立派な椅子の背もたれに邪魔された。 コンラッドは、右手をあげてオレの額に触る。するとコンラッドの体温が額に広がった。なんだか動けなくてじっとしているのに、すぐに温かさが高まって、触られたところが汗ばんできているような気がした。逃げたいっ!心配してくれているコンラッドには悪いけど、この場から逃げ出したくてものすごく焦ってきた。だから、なに焦っているんだ、オレ! 「熱はないみたいですね?寒気とかしますか?」 「…ない。全然平気」 それは嘘だけど。どきどきしているから全然平気じゃない。 「へんなところでうたた寝したから風邪でもひかせたのかと…大丈夫ならよかった」 コンラッドは、どうやら顔が赤いオレが風邪でもひいたと思ったらしい。ほっとした表情で額から手をどけた。汗ばむような温かさはすうっと引いて、突然冷えるように消えた。焦っていた気持ちもなぜか落ち着いてきた。 「心配のしすぎだって。オレ、健康優良児なんだよ」 そりゃあ、さっき寝ているときに風が吹いて風邪ひくかもなって思ったけど。ふと振り向いて窓辺を見ると、窓はぴったりと閉じられていた。あれ? 「窓、閉まってたっけ?」 確かに開けた覚えはないけれど、寝ている時に風を感じたような…。 「閉まってましたよ、風で書類が飛ぶとまずいので。どうかしましたか?」 でも、寝ている時に、こう、髪がやさしく風になびくように動いたような気がしたんだけど。ゆっくりとかすかに撫でるように。 「なんでもない。さて!やるぞ!」 焦ったりあわてたりした自分がなんだがみっともなくて、必要以上に頑張って書類に向かう。コンラッドに変な疑いをかけて、恥ずかしい気持ちもちょっとある。そんなこともつゆ知らず、コンラッドはオレの飲んだお茶のカップと皿を仕事の邪魔にならないように、机の上からどけた。 優しいコンラッド。ごめん、変な疑いもっちゃって。オレは心の中でかなり強く謝った。テレパシーがあるなら聞こえるかもと思うくらいに。 コンラッドはトレーに自分が飲んでいたカップも乗せて、部屋の隅にある小さなテーブルまで運んだ。そこで、ほんの少し立ち止まって、テーブルの前から動かなかった。 「コンラッド?」 わからない文字を聞こうとして声をかけたら、コンラッドがびっくりして振り返った。 「驚かせてゴメン」 「いいえ。ちょっとぼーっとしてしまって」 いつもの笑顔でそう答えた。考え事でもしていたように、あごのあたりにあった右手の親指がすうっと降りて、優雅な足取りでオレに近づく。 「これ、なんて書いてあるのかな?」 「どれ?」 ちょいとコンラッドがのぞき込んで、顔が近づいた。こうやってみるとまつげも茶色い…当たり前だけど。意外と長くてびっくりした。 「これは、『記念日』だよ。ユーリの誕生日を記念日にする起案」 思わず見つめていたコンラッドが急にこっちを向いた。いきなり間近でコンラッドの視線を受けて、あせったオレはものすごい勢いで目をそらした。 「陛下?」 「陛下って呼ぶな、名付け親っ」 「つい癖で。ユーリ、どうかした?やはり顔が赤いよ」 「なんでもない。ちょっとびっくりしただけ」 ヴォルフラムみたいに王子様ちっくに派手な顔立ちじゃないけど、コンラッドは精悍な顔立ちをしている。どんな顔かなんて解ってるけど、じっくり見たことなんてなかったから、まつげが思ったより長いとか、もみあげのあたりに隠れるように小さなほくろがあるとかそんなことに思わず驚いて見つめていた。 「たしかに自分の誕生日を国の記念日にされたら驚くね」 コンラッドは全然見当違いなところに頷いていた。なんだか今日はコンラッドにものすごく申し訳ない気持ちになることが多い。 「記念日になんかしなくていいよってことで。これは不可」 オレは自分の中の恥ずかしさと一緒にその書類を遠ざけて、別の書類をつかんだ。 「『なんか』なんてことはないですよ」 遠ざけた書類を長い指で拾いながら、コンラッドが続けた。 「俺にとっては大事な日です。世界中が祝福しているかのように澄んだ空をしていましたよ」 懐かしむように目を薄くほそめて、コンラッドが優しく微笑んでいる。だからっ、そんな笑顔を男のオレに向けられてもっ!背中のあたりがむずかゆい。無意識に逃げるように背もたれにぴったりと背中をつけていた。 「オレの誕生日が?」 たしかにコンラッドがオレの魂を運ぶという任務を無事に果たして、ちゃっかり名付け親になった日ではあるけど。 「はい。無上の喜びでした」 まるでギュンターのようなことを言うコンラッドは、穏やかな笑顔だった。いつものさわやかなのとは違う。なにか…ふっきれたような澄んだ感じの、そんな笑顔だった。 その静かな笑みを見ていたら、なんだかコンラッドが少し遠くに感じて、怖くなった。引き留めなきゃ遠くに行くような気がして、オレはあせって声をかけた。 「コン…」 「ユーリ!この僕を待たせるつもりなのか?!」 穏やかな雰囲気をどかんと壊して、ヴォルフが殴り込みのように部屋に入ってきた。 「え?なにかあったっけ?」 突然のことについてゆけなくて、間抜けな問いかけをした。 「僕と乗馬の練習をするという約束を忘れていたのか?尻軽っ!」 「あ〜…って、約束の時間より早いじゃん!」 「馬具をつける準備の時間を考えれば、遅刻する時間だっ」 あいかわらずなわがままっぷりを胸はって言うな、82歳!ヴォルフラムはオレをひっぱって部屋からひきずりだすように歩き始めた。 「いってらっしゃい」 コンラッドはにこやかに送り出した。その笑顔はいつものさわやかなものだった。ちょっとほっとしたけれど、コンラッド!のんきに手なんて挙げてないで助けてくれっ!そんなオレの願いを断ち切るようにヴォルフラムは勢いよく扉を閉めて、オレはそのまま厩舎へと連行された。 廊下から聞こえるヴォルフラムの声がどんどん遠ざかってゆく。主の消えた執務室は、しずかな空気に包まれていた。その静けさがどこか温かかった室内もゆっくりと冷やしてゆくようだった。 コンラートは手にしていた起案を机の上に丁寧に置くと、紙の上に指を滑らせた。 「君と会えた大切な日だよ、ユーリ」 誰にも聞こえない言葉は、そのまま部屋の中で消えた。あの日のことは今でもはっきりと思い出せる。眩しい日差しが木々の緑を鮮やかに照らして、空は高く澄んでいた。この残酷な世界にわずかな祝福を与えるように。 コンラートは書類から手を離して、先ほどトレイを置いた机に近づいた。すっかり冷えたカップに手を伸ばす。有利が飲んだ方のカップの縁を指で撫でると、また彼の声が聞こえてきそうだった。こっそりと、まだぬくもりのあるカップの縁をなでていたら、急に声をかけられてあせってしまった。コンラートはいたずらをした子どものような気持ちごと、右手の指に残る感触を閉じこめるように握りしめた。 もうすっかり冷えてしまったそれをトレイごと持ち上げて、扉の外にいる番兵に渡す。そのままゆっくりと厩舎のある方へと歩き出した。外から差し込む日差しは、あの日よりは穏やかで、コンラッドは廊下の日だまりを踏みながら、外へと目を向けた。空は澄んだ色をしていて、小鳥のさえずりは彼のいる世界を今日も祝福しているかのようだった。 →2 |