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Squall 1



 兄はこんな人だっただろうか?

「あらまぁ、よく似合うこと!ねぇ、啓介」
 母の言葉に、啓介は答えなれらかった。この春に中学に進学する涼介の制服が届いたと聞いて、さっそく試着してみることにしたのだ。ほんの少し大きめの黒い学生服をまとった涼介は、その余った丈くらいどこかよそよそしい。
「ほんのすこし、大きくない?」
 ドアの向こうからすべり出てきた涼介は、着慣れないガクランの袖をおさえた。
「それくらいなら、大丈夫でしょ?すぐにぴったりよ」
 あっという間ね、そう呟く母が思い出したように付け足す。
「そろそろ二人の部屋も分けないとね、ちょうどいいからこの春に模様替えしましょう」
 啓介は、ぎゅっと拳をにぎりしめた。
「啓介?」
 大きくちょっとつりあがった啓介の目は、めいいっぱい見開いている。涼介は、警戒したまま固まっている子猫みたいな弟が心配になって、手を伸ばす。しかし、触れるよりはやく啓介はすべるように身を翻して、部屋を飛びだした。
 立て襟に隠れた白い喉。
 黒い生地に映える白い兄の手や、襟からわずかにのぞかせたうなじ。
 どくっと小さな体の奥が震えた。
 さらさらと揺れる髪が、啓介の気持ちをざわめかせる。ばんっと乱暴に扉を開いて、啓介はわざと兄のベッドに飛び込む。すると、机のそばに置いてある新しいカバンが目に入った。ランドセルよりも細く小さなそれからも逃げるようにして、寝返りを打つ。
 二年。
 いつもは感じない長さが突然現れる瞬間だ。
「なんだってんだよ…」
昨日までの兄は、自分と一緒になってゲームを攻略していたのに、今日になって突然「中学生」になった。ふいに重たく感じた頭を啓介はベッドカバーにこすり付けた。勝手に滲む涙が小さなしみをつくると、やわらかい匂いが鼻をくすぐる。その香りを胸いっぱいに吸い込むと、啓介はベッドカバーに頬をすりよせた。


「啓介?」
 涼介は半開きのドアから中を覗き込むと、ベッドの上のちいさな影を見つけた。兄弟一緒の部屋は、ふたつのベッドを挟んで涼介と啓介の机が部屋の両端に置かれている。ちゃんと自分のベッドがあるのに、啓介は、なにか気に入らないことがあると涼介のベッドに飛び込んできた。
「啓介?」
 近づいてみると、啓介はベッドカバーをにぎりしめたまま、眠っている。
「しょうがないな…」
 まだ春も浅いころ、こんな風に寝れば風邪をひいてしまう。涼介は、部屋においてあるタオルケットを上にかけてやろうとして、啓介の頬に残る跡を見つけた。
「泣くほどのことかよ…」
 啓介はいつも兄の真似をしたがった。
 自転車のときも、オレの真似をして補助輪いらないって駄々こねたんだよな。どうせ今回も自分ひとりが中学生になるのが気に入らないのだろう。
 最初はいつも「自分」。
 でも、すぐに啓介は追いついてしまう。
 自転車も逆上がりも、もう涼介の手助けなしで出来てしまう。そのうち、体も成長して、涼介よりも体力がつくかもしれないし、苦手な勉強もできるようになるかもしれない。
 すぐ、なんだろうな…
 ほんの30センチの距離にある啓介の寝顔。その頬はうっすらと桃色に染まり、見るも柔らかだ。ゆっくりと涼介は指をのばして、留まった。しずかな部屋にやわらかい呼吸音がとけてゆく。
 涼介は、触れたい衝動を飲み込んで、ひとり部屋を出た。


「いってきまーすっ」
「ちょっと、啓介!傘持っていきなさいっ」
 母の声は、ばたんっと大きな音を立てて閉まる玄関に跳ね返った。
「もー、あれは聞いてないわね…時間に余裕があるのになんで慌てて行くのかしら?」
 くすりと涼介は笑いながら、紅茶を飲んだ。
「母さん、降水確率30%だぜ?大丈夫だろ?」
「ならいいけど…涼介もそろそろ行かないとね」
 今までは兄弟一緒に登校していたが、この春から啓介だけが、ちょっと早く家を出る。毎朝、啓介は逃げ出すようにして学校へ行く。背中のランドセルの中で、教科書が揺れて悲鳴をあげるのを無視して飛び出した。
 本当はまだ家でのんびりしてもいいけど…あのガクランを着たアニキがいると、ムズムズするんだよなぁ。
 そんな訳のわからないガキみたいなこと、誰にも言えなくって、逃げ出してしまう。学校で飼う生き物の世話係になったというのが、啓介のイイワケ。遅刻するよりいいけれど、と母は苦笑して、アニキは「がんばれよ」とだけ言った。本当は、途中まで涼介と通える通学路をひとりで歩いていると、後ろめたくて頭がどんどん下がってゆく。
 この春から変わったのは、それだけじゃない。毎日、帰って来るのは、涼介の方が遅くなった。そして、啓介が寝るころまで兄は机に向かうようになって、なかなか遊んでくれない。おかげで、攻略しているゲームが全然進まなくなってしまった。
「つまんねぇ…の!」
 啓介の蹴飛ばした小石が、ただをこねるように地面をはって止まった。


 どんよりと薄暗い空は、眉間に皺をよせて大地を睨んでいる。放課後の校庭でサッカーをしていた啓介は、鼻先に落ちた大きな雨粒に顔を上げた。
「げっ」
「やべーよ、高橋帰ろうぜ!!」
 同級生たちが、慌ててランドセルに駆け寄る中、啓介はサッカーボールを体育準備室に放り込むと、突然叩きつけるような音が耳を打つ。雨だけでなく、雷までやかましい。
「やばっ」
 どう雨宿りしようと、ランドセルを取りにこの雨の中をくぐらないと行けない。啓介はすうっと息を吸い込むと、勢い良く飛び出した。
 ばしゃん。
 道路の窪みにできた小さな池が啓介の足を濡らす。
 やってらんねぇ…
 どう走ろうと、濡れるんだもんなぁ…
 家路を急いで走っていた啓介の目の前に廃業した店がぽつんと見える。小さな体をその店先に滑り込ませると、一心に頭を振った。
「いつまで降るんだよ…」
 雨音は祭囃子のようにやかましくふりそそぐ。啓介は小さな肩を下げて、空を見た。
 こんな雨の中を逆らうように走っても、また濡れるんだよなぁ…
 ばかみてぇ。
 自然と溜め息が出る。急いで帰っても、母も兄もいない。お手伝いさんにただいまと言うくらいだ。
 どうせ、まだアニキも帰ってない。
 ひとりでおやつでも食って、ひとりでゲームするんだ。
 アニキがクリアしてないゲームをひとりでやっても、ぜんぜんつまんねぇ。
 啓介は、髪から滴り落ちた滴のちいさなシミを足でこすった。
「啓介?」
「…アニキ?!」
 カバンを小さな傘の代りにしていた涼介が、するりと啓介の横にやって来た。
「母さんの言うとおりだったな」
 制服の上を軽くたたきながら、涼介はくすりと笑う。啓介は、白い肌に浮ぶ雨のなごりを見つめていた。
「啓介?」
「…母さんが?!」
 啓介は慌てて道路ではじける雨に視線をずらすと、水溜りを睨んだまま聞き返す。見なれているはずのアニキの顔。
 あんな顔だった?
 盗み見るように横をうかがうと、涼介はカバンを叩いて滴を払っていた。
「…今日は雨が降るから、傘もってけって言ってたんだ」
「…アニキ、持っていかなかったのかよ?」
 30センチ先にいる涼介の動きがいちいち気になる。めずらしい、そう呟くと、啓介はまた道路の雨のダンスに視線をずらした。背中が痒くて落ち着かない。まるで初めて会う人のような気分になった。
「降水確率30%だったからな…」
 あなどったぜ、と続く言葉を涼介は飲み込んだ。なにかに耐えるように道路を睨む啓介の視線の強さが飲み込ませた。
 啓介?
 涼介は、雨がしたたる柔らかな髪に手を伸ばそうとして、止めた。堪えるように雨のしずくが、啓介の髪に浮いている。奇跡のように作られた偶然は、微妙なバランスでくずれるのを留まっていた。触れたら、壊れてしまう。啓介の髪を飾る清楚な飾り。キレイな偶然。
 それは、啓介のむきだしの肌をも飾る。太陽をいっぱい浴びた肌をすべる雨。細い腕はこどものものなのに、視線だけは強い。

 弟はこんなだっただろうか?

 涼介は、自分が触れてはいけないような気がして手を下げた。
「これは、すぐにやみそうにないな…」
「だけど、すっげー降ってるし…」
 見れば、啓介はぐっしょりと濡れそぼっている。途中まで史浩の傘に入っていた自分と違って、啓介は豪雨の中を走ってきたらしいことに気づき、涼介は学生服の上着を脱いだ。
「アニキ?」
「これ、かぶってろ。春の雨は侮ると風邪ひくからな」
 啓介の頭にぱさりとかぶせると、涼介はカバンを頭の上に乗せる。
「もう少しだから、走ろうぜ」
 啓介のランドセルを軽く叩いて、雨の中を飛び出した。頭から被らされたガクランのバリアの中で、啓介は真っ赤な顔を隠すようにして、店の軒先から足を出す。くぐもる雨音が涼介のガクランを叩くたびに、小さな世界の中は良く知っている匂いで満たされる。
 いままでも、よく嗅いだ匂いなのに、今日はやけに啓介の鼻をくすぐった。
「もう少しだぞ、啓介」
 がんばれよ、そう言う兄の白いシャツは濡れ、ぴったりと肌にはりついて、透けて見える。キツイ陽射しを避けて守られたような涼介の白い肌は、シャツの白さの中でうっすらと色づく。
 どく。
 一歩踏み出すと、ランドセルの中と胸の中が騒いだ。
 どくっ。
 揺れる匂い。ほんのすこしだけ先を走る涼介の背中に追いつきたくて、啓介は足に力を入れる。
 しかし、白い背中をみつめたまま、ふたりは家に辿りついた。


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