Squall 2 | |
玄関口に飛び込んだ涼介は、後からやってきた啓介を家に入れると、肩で息を何度もついた。すっかり雨でぬれたシャツが肌にはりついていたが、思ったほど冷たくなかったのが幸いして、体は熱いくらいほてっている。額にはりついた髪をかき上げながら、黒いベールを取り払った啓介を見ると、耳までも赤く染めて息を切らせていた。 「啓介?真っ赤な顔して、どうした?」 自分と会うまで雨に濡れていた啓介は、体を冷やしてしまったかもしれない。熱でもあるのか?と涼介は啓介の額に手を伸ばすと、啓介はその手にガクランを押しつけた。 「大丈夫。それよか、これサンキュ」 「…ああ」 「アニキ、先にシャワー浴びて。オレより濡れてて、そのまんまじゃ風邪ひくから」 落ち着いた口調のまま、涼介を置いて啓介は先に玄関を上がる。涼介は部屋に行こうとする啓介の背中を見つめた。 啓介は、こんな子どもだっただろうか? 「…サンキュ」 遠ざかる小さな背中に、涼介は喉にひっかかった言葉をやっとの思いで吐き出す。小さな足が2階へと上がるころ、お手伝いさんがあわててやって来た。 「まぁ、すっかり濡れられて。お風呂できてますよ?」 「啓介」 ひとり部屋に上がろうとした足が止まる。 「一緒に入るか?風呂」 いつもなら、振り向くはずの啓介が、顔を横にのぞかせたまま階段を上がって行く。 「…いーよ。ガキじゃねぇし、アニキ先に入って」 「…」 そのまま啓介は振り向かないで、部屋にはいっていった。 「はぁ…」 ぱたんとドアを閉じると、啓介はランドセルをしょったまま、ずるずるとその場に崩れる。どくどくと胸を打ちつける心臓のあたりをぎゅっとつかむと、息をはいた。吸い込んだ息の中に、兄の気配を感じると、啓介は首が痛くなるほど頭を振る。 雨にさらされてうっすらと桃色に色づく白い肌。雨を含んだ艶やかな髪がつややかに映えていた。 兄はあんなにきれいだっただろうか? どくんと体が蠢いて、啓介は体を小さく丸めた。 「っくしょー…」 涼介のガクランに守られた頭に指を滑らせる。ぎゅっと瞼を閉じると、目の前を走る涼介の背中が浮んだ。 いままでだって、アニキの背中は見なれているのに… 啓介は、ぎゅっと自分の髪を握り締めた。自分よりも何歩も先を走るアニキに追いつこうと、全力で走ったのに、結局追いつかなかった。ただ濡れてゆく白い背中を見ているだけ。 ぎゅっと固く閉じた瞼が熱い。 ――一緒に入るか?風呂。 どんなときも、弟を守るアニキ。 閉じたはずの瞼からにじむそれは、雨よりもあたたかく体中に染み込んで啓介を苦しめた。 「そろそろお部屋を分けましょうね」 夕食の席で、ちょろっと啓介を見ながら母が切り出した。 「いいぜ」 涼介は、すぐ隣から聞えた返事に振り向く。 「何?アニキ?」 「あら。啓介、ずいぶん素直ね」 爆発すると思っていた啓介が、素直に応じたのには母も驚いた。 「別に、ごねるようなことじゃないだろ」 「…ゲーム機はおにいちゃん持ちね」 「げー!!」 アテがはずれた啓介は、ふくれっつらのままご飯をかき込むと、テーブルを離れた。 「じゃあ、明日にでも模様変えね」 後ろ姿のまま、啓介が手をひらひらとふって返事をする。涼介は、また遠ざかる小さな背中を無言で見送った。 どうしてだろう。 階段をゆっくりと昇りながら、涼介は部屋のドアを見つめる。啓介は風呂から上がると、部屋に戻らず、リビングでひとりゲームをしていた。 このところ、啓介は何のわがままを言ってこない。ゲームが攻略できないとか、テレビを見ている時に違う番組を見たいとか、そんな小さなことすら聞こえてこない。ささくれた傷のような違和感が、帰宅後から涼介を悩ませた。 涼介がゆっくりと息を吐き出して今宵かぎりの相部屋に入ると、啓介はベッドの上でマンガを読んでいる。 「啓介?」 啓介の顔が上げた時、どくっと涼介の中の血液が音を立てて、涼介はその場に立ち尽くした。 「なに?アニキ」 啓介は…こんな目をしていただろうか? すっきりとつり上がっている啓介の目が自分を見つめている。 静かで強いまなざし。いつも向けられていたはずの瞳の中で、小さな自分が捕われたように映し出された。涼介はその視線を避けるように、ベッドの向こうにある机のそばの椅子に腰掛ける。 昨日までの啓介ではないような気がして落ち着かない。 「…よく部屋のこと応じたなと思って」 なんとなく啓介の近くに寄れない涼介は、鎮まらない焦りの中でかろうじて声を出した。 「別に…ゲームはアニキ持ちだけど同じ家だろ?」 啓介は、ぷいっと拗ねたようにマンガを読み出すと、ぽつりと呟いた。 「あんなことでごねんの、ガキみたいじゃねぇか」 むすっとした頬は、いつものように明るい色をのせてふくらんでいる。 「ぷっ」 「んだよ!笑うことねぇじゃん!!」 啓介はマンガを放り出して、肩を震わせて笑う涼介を睨む。その顔はよく知っている、啓介の顔だった。気が抜けた涼介は、自分が可笑しくて、啓介が愛しくてたまらない。 「いや…よく我慢したなぁと思ってさ…」 「〜〜〜!!」 ますますふくれた啓介が、涼介に背を向けてベッドにごろんと転がった。 いつもの啓介だ… すっかり拗ねた啓介は、小さい背中をさらに丸めている。 「ごめん、啓介」 ゆっくりと立ち上がった涼介が、啓介のベッドの端に座り、丸まっている啓介の背中を撫でた。いつも見てきた小さな背中は、少しずつ大きくなっているが、その温かみは変わらない。あたたかな体温が手のひらにつたわって、少しだけこわばっていた涼介の体を解かしてゆく。 「アニキ、ホントに悪いと思ってる?」 「思ってる」 「んーじゃあ、さぁ…俺一回やってみたいことがあるんだけど…イイ?」 涼介を見上げる目が不敵に輝いている。断れられるとは少しも思ってないらしく、その単純さに涼介はいいよ、と返した。 「雨、やまねぇのかな」 窓を叩きつける雨を見上げながら、寄り添うようにして寝ている啓介が呟く。二つのベッドをくっつけてダブルベッドにしてみたいという啓介の希望で、明日から離れ離れになるベッドを引き合わせた。 「明日も雨かもな」 涼介は、ぽつぽつと窓を叩いて揺らす雨をぼんやりと見つめた。さっきまで、さんざんベッドの上を飛び跳ねて枕なげまでしていた部屋が、黙り込んで静かになる。啓介がカーテンを引いても、雨音がやけに耳についた。 「げー、いやだなぁ…アニキ?」 うんざりしながらつぶやく啓介の頬に、涼介の指がすべる。 いつも見ていた啓介の顔。 でも、知らない顔もまだあるんだな。 ふいに寂しくなって、30センチ先のある啓介を捕まえたくなった。 「…やわらかそうだなと思って」 「ナニソレ?」 へんなアニキと言いながら、啓介はされるがままになっている。その指が心地よくて、啓介はゆっくりと瞼を閉じた。最後の夜、緩やかに遠ざかる雨音はしつこく窓を叩き付け、啓介はその音に誘われるように眠った。 「啓介?」 啓介の深まる息が部屋に広がると、涼介はすこしだけ身をよじらせる。近くなった分、啓介のしっかりとした寝息が涼介の耳に忍びこむ。外の雨がふたりを呼び出すように叩きつけていた。 だけど、もうしばらく、このままで。 啓介も自分も、この小さな部屋の中で止まってしまえたらいいのに。 ゆっくりと沈む意識の中で、そう祈りながら、今は啓介の音だけを頼りに眠った。 ←1 →3 |