死せる世界の涯で 10



  嫌な予感というものは、当たって欲しくないときほどよく当たる。嫌というよりは、こうなにかが起こるというざわめくような予感だが。
 ピンクの帽子に大きめのサングラスの出で立ちに巨大なトランクを押して有利が現れた瞬間、コンラートは、そんなことを思った。
 「お待たせ…ってあれ?」
 「遅いぞ、ユーリ!」
 「…な、なんで?なんでヴォルフラムがいるわけ?」
 「なんでとはなんだ!この尻軽ッ!」
 弟の姿を見て驚いたのは、彼だけではない自分だって驚いた。しかし準備する間もなく出てきたのだろう。貴族の子弟の旅行にしては軽装もいいところで、着の身着のままという状態だ。大方、城を抜け出す自分をどこからか見て、追っかけてきたのだろう。帰るように言ったが、この強情な弟は聞き入れなかった。
 「ぼくはお前の婚約者だから、旅先でよからぬ恋情に巻き込まれないように、監督指導する義務がある!そうでなくともお前ときたら尻軽で浮気者でへなちょこだからなッ!」 先ほどコンラートに主張したことを婚約者にまで披露する。まぁ、それだけ魅力的な婚約者を持つと両方とも大変なものである。
 「よかなぬってなんだよ!だいたいへなちょこ言うなっ」
 「まぁまぁ、へ…坊ちゃん」
 せっかく変装したというのに、大声をだしたのではなんの意味もない。これ以上目立つのは得策ではないので、コンラートは弟と有利の間へ馬に蹴られない程度に割って入った。
 「多少うるさいかもしれませんが、ひとり多いくらいが楽しいかもしれませんよ」
 ふんッ!という鼻息が聞こえそうなくらい勢いよくヴォルフラムが顔を背ける。その高飛車な様子に、掛ける言葉もなくした有利が深いため息をもらした。そして、視線を横に逃がしたまま、ぽつりと呟く。
 「その…もーひとり増えたらまずい…かな?」
 「は?」
 イタズラをした子どもが親に見せるバツの悪そうな顔をした有利は、大切そうにトランクの上へ両手を添えている。
 「…その中身を見てもよろしいですか?」
 いくら大きいとっても、人が入るには限界がある。もし、入ることが出来るとするとよほど小さくないと叶わない。そう、こどもくらいの大きさなら余裕だろう。
 まさかという思いと、もしかしてという予感がコンラートの中で先ほど押しとどめていた感情に爪を立てるように刺激する。コンラートが伸ばした手を拒むことなく有利は手をどかした。コンラートの手よりも少しだけ小さな手がトランクに置かれていた場所を掴むと固く冷たいトランクはそこだけ日だまりのように温かい。
 この太陽のような少年はいつだってそうだ。
 そのぬくもりを手のひらに感じながらコンラートは受け取ったトランクを見つめる。
 自分は彼が生まれる前から知っていたはずだ。「彼」がまだ彼でなかったころ。よく夜に魂だった「彼」が入った瓶を取り出して見つめていた。淡い光が夜の青に静かに溶けながら、手のひらがふれるように優しくコンラートの頬や手を温めた。それはまるで母が子どもを柔らかく抱きしめるようなぬくもりで。それはじんわりと体の奥まで入ってきて、心の中まで照らすような光は、全ての赦しを乞うような、全てを許してしまうような温かさだった。
 まるでこのトランクのように固く閉ざしたコンラートの中へ差し込んできた優しい光は、「彼」となっても変わらない。そして、これからも。自分の愚かで女々しい心配をかき消すように輝くのだろう。
 彼のぬくもりから名残惜しげに手を離し、コンラートはトランクの鍵を外した。捕らえられた暗殺者を切なそうに追った視線に尋ねるように顔を上げた。
 「?」
 突然コンラートに見つめられた有利は、心配そうにトランクをのぞき込んでいる。大きなサングラスが彼の美しい瞳を隠して、その奥に宿る輝きを見ることが出来ない。
 「コンラッド?」
 無言で視線を外したコンラートは、トランクの蓋を開く。ゆっくりと開いた中に光が差し込んで丸く手足を縮ませた少女の少し怯えた顔が見えたとき、思わず笑いがこみあげてきた。きっと自分もこんな風だったに違いない。いや今もかもしれない。そう思うと少し軽くなった気持ちから笑いが溢れた。
 それにしたってどうだろう?コンラートやグウェンダルの心配をよそに暗殺者の脱走をよりによって暗殺されかけた者がするとは。
 「暗殺者じゃないですか!」
 蓋を開いて、少女を外へ出すためにコンラートは彼女の肩に手を乗せる。大きな瞳はじっとコンラートを見つめていたが、触れた瞬間は小さく痙攣するように震えた。
 「信じられない、見張りになんて言ったんだか!」
 「親子水入らずで話したいって」
 コンラートは細い肩を引き揚げて、少女をトランクから出す。眩しい世界へと引き出された小さな暗殺者は、緊張からなのかそれとも目が眩んでいるからなのか、逃げ出すこともせずに立ちつくしている。
 「それじゃ認めたも同然だ」
 肩から力が抜けてゆく。嘘をついてまで救おうとするとは。有利がなにか言いかけたとき、横から手が伸びて彼の耳を掴んだ。
 「いーたたたたっ!なんだよっ、ヴォルフラムッ!」
 「お前はいったい何を考えているんだッ!自分のしていることが分かっているのか?!やっぱりお前の隠し子だったのか?この尻軽ッ!」
 本当だ。ヴォルフラムだけじゃなく誰でもそう聞きたくなるだろう。
 「違うって!」
 有利はヴォルフラムの手を振り払って、サングラス越しから強い視線をまっすぐに向けた。
 「オレはどーしても聞きたいことがあるの!どーしてオレを殺したいのか、ちゃんとこの子から聞きたい」
 「それはお前が魔王だから命を…」
 「そんなのわかんないだろ?」
 聞き分けのない子どもを叱るように言い聞かせようとするヴォルフラムの言葉は、静かだが強い意志を持った声に遮られた。
 「ちゃんと聞かなきゃわかんないだろ?オレ、この子に恨みを買うようなことしたかわかんないけど、人を殺そうとするには、それ相応の理由ってヤツがあると思うんだ。オレはちゃんと聞きたい」
 有利は太陽の下でなにも映さないような寂しい目をした少女を見つめる。コンラートはその冬の重い空のような目に見覚えがあった。全てを拒絶して全てを諦めた懐かしい目だ。
 「なにをのんきなことを!」
 「待て、ヴォルフラム。こんなところで騒いだら目立つだけだ」
 怒りで頬を染めていたヴォルフラムがぐっと押し黙る。
 「連れてきてしまった以上、ここで何を言っても始まらない。陛下がこの子と話がしたいというなら仕方ないだろう?」
 「暗殺者と一緒に旅をしろと言うのかッ?!」
 コンラートに噛みつくような勢いでヴォルフラムが食ってかかる。それを両手で押さえるようにコンラートが制した。
 「ならどうするんだ?お前が城に連れて帰るというのか?」
 「なんで僕が…」
 「それはダメだからな!」
 兄弟で話す横合いから有利が割り込んできた。
 「今この子を帰したら、オレの居ない間にギュンターがなにをするかわかんないし。絶対にダメだからな」
 たしかに。愛する魔王陛下を暗殺しようとした者を無事に置いておくはずがない。そう言えば、怒り狂った王佐は書庫に籠もって過去の死刑例の検証をしていた。…危険すぎる。
 「ヴォルフラム、陛下の御意志だよ。それでは員数を追加してくるから後は頼むぞ」
 「わかっているッ!」
 ものすごく納得していない様子でヴォルフラムが顔を背ける。仕方なくコンラートは有利たちの傍を離れた。幸い定員に余裕があったおかげで、すんなりと追加部屋がとれると4人は船へと乗り込むことになった。
 「さ、行こう」
 有利がかがみ込み、少女の様子をうかがう。コンラートがなんの反応もしない彼女の背中にそっと手をおくと、赤毛が揺れて少女は振り返る。
 「行こう」
 コンラートがそう言うと、少女は無言で船へと歩き出した。ヴォルフラムはその様子を注意深く見つめると、少女のすぐ後ろへと続く。
 「すごっ、さすがコンラッド。もてる男はすごいな」
 「それより、あの子になんて言って連れ出したんです?」
 なにもかもが疎わしいと言わんばかりの目をした少女を一体どうやって連れ出したのだろう?
 「え?大したことは言ってないよ。こんな寂しいところじゃないところに行こうって言っただけ」
 有利は衛士に頼んで入った石牢の中を思い出した。牢屋なんて入るのは人生で2度目だけど、そこは暗いだけではなく湿って汚い。こんなところにいたらどんな健康な人間だって体をおかしくするだろう。
 カビ臭さが鼻につく闇の中で少女は体を丸めて座っていた。扉が開いたことも気にも留めず固く自分の膝を抱えていた姿を思い出すと今でも胸が痛い。
 「…あのさ、」
 ここに来るまで言おうと思っていたことが一瞬で吹き飛んで、間抜けな言葉だけが出てきた。それでも少女が顔を上げてくれたのだからよしとする。
 「名前、聞いてなかったんだけど。なんて言うの?」
 ナンパとしたら最悪。ナンパじゃなくても最悪だろう。現に少女は押し黙ったまま有利を見ているだけだった。
 「オレ、君に殺されるようなことしたのかな?」
 近づくなと言わんばかりの固い表情をした少女に向き合うように、有利はしゃがみ込んで視線を合わせる。
 「もししていたとしたら…ごめんな。でもオレわかんないだよ。殺される理由が」
 まるで独り言のように有利は言葉を続けた。少女の冷たく固い表情はこの前に見たコンラートの表情と重なる。どうしてだろう?歳も性別も違うのに、この子はあのどこか悲しい獅子の顔に似ている気がした。だからだろうか?どうしても気になるし聞きたい。どうしてそんな冷たくて寂しい目をしているのかを。
 「それと知りたいんだ。なんでそんな苦しそうな顔してんのか。だからさ、」
 闇に手を伸ばすように有利は少女に手を差し出す。
 「オレと行こう?こんな寂しいところにひとりでいないで、オレと一緒に寂しくない場所に。困っているなら一緒に考えるからさ」
 そう言うと暗い瞳が少しだけ揺らいだ…ような気がした。しばらくはじっとしたままだったので、失敗したかと思った矢先に少女の手が膝から離れた。それからはドキドキしながら彼女をトランクの中へ隠して待ち合わせの場所へと逃げるように出てきてしまった。思えばコンラッドには何も相談せずにここまで来たことに今更気付いて、有利はタラップに足をかけたところで振り返った。
 「ごめんな。コンラッド」
 小さな声が潮風にのってコンラッドに届く。
 「なにがです?」
 「あの子…黙って連れ出してきちゃって…」
 一応まずいとは思っているらしい。少しだけ元気のない有利をコンラートは後ろからのぞき込んだ。
 「してしまったことは仕方ありませんが、あまり無茶しないで下さい」
 「ごめん…」
 首をすくめて謝る有利がタラップを登る。コンラートはふいに浮かんだ疑問をその背中にぶつけてみた。
 「どうしてあの子の話を聞こうと思ったんですか?」
 甲板に着いた有利が振り返る。言いかけて開いた口を一度気まずそうに閉じたが、そらした視線をコンラートに戻した。
 「だってあの子もアンタも辛くて苦しいって顔してたから」
 「え?」
 心臓の近くを触れられたような気がした。自分の顔?それはいつのことだ?いや、それよりもまさかそんなことを気にして暗殺者を連れだしたとでも言うのだろうか?
 「あんな目していたら気になって…コンラッド?」
 一体どんな目をしていたというのだろう?だが、今も自分の様子を気にしてのぞき込む彼の姿を見るだけでじわりと何かが浸食するように体の中へと広がってゆく。
 「あなたは…そんなことを気にして…」
 「そんなってことないだろ?」
 むっとするように有利が顔をしかめる。なぜ、そんな風に彼がむくれるのだろうか。だが、そんな表情すら先ほどの感覚と溶けて甘くコンラートをしびれさせる。
 「オレにできることなんて大したことないかもしんないけど、だからって見て見ぬフリすることなんて出来ないよ。そんなことしてたら、なんか…一番大切なものをなくしそうな気がする」
 そう言い切る少年の言葉が痛いくらいコンラートの中へと入り込んで責め立てる。それはオトナの言い訳や欺瞞を許さず、まっすぐコンラートの奥へと斬り込んできた。
 そして淡い痛みを伴って、かさぶたのように覆っていた言い訳を薄く剥がしてゆく。そこへ潮風が全てをさらけ出すようにコンラートの顔を撫でた。
 強い潮風が頑なな理性を引き剥ぎながら通り過ぎて、そのたびに甘い喜びに似た感情が強くなる。それはどこか懐かしく、それでいて昔感じた感情とは違う「気持ち」。
 もはや無視をするには強すぎて苦しくなって、コンラートは堪えるように目を細めた。さきほどから強く感じる喜びも、出掛ける前に感じた怒りにも似た執着も、遠いあの日に流した涙するほどの幸せがそこから溢れる。
 この名前もないままに自分の中に眠る気持ち。有利を目にするだけで心臓を甘くひっかくような感覚が生まれてくる。あえて見て見ぬフリをし続けてきた「それ」は────。
 とても単純でこんなにも強い感情がまさか自分の中にあると思わず、コンラートはそのどうしようもなく苦しい気持ちを隠すように片手で口のあたりを覆った。だがそれだけでは止められない。全てを有利に投げ出してしまいたくなる。
 自分の中にある強い感情に囚われて固まったコンラートのことなど知りもせず、ただ強ばる彼の様子が気がかりで有利はサングラスをずらした。コンラートと自分を隔てる薄暗い視界が晴れてコンラートがはっきりと見える。
 「オレ、なんか変なこと言った?」
 「…いいえ。なんでもないんです」
 そう笑うコンラートの顔は冬の空を照らす光のようにどこか淡く切なげな笑顔だった。



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