死せる世界の涯で 9



 「それでは陛下、荷物をまとめて下さいね」
 コンラッドは部屋までオレを送ると、そう言って微笑んだ。
 「陛下って言うな、名付け親」
 オレがムッとしてそう言うと、つい癖でと嬉しそうに謝る。
 「待ち合わせは少し遠いですが大丈夫ですか?本当はお迎えに行きたいのですが、いろいろと準備がありまして…」
 申し訳なさそうにコンラッドが頭を下げようとるのをオレは止めた。
 「いいって、大丈夫だよ。それに二人そろって抜け出したら、目立つって。また後でな」
 オレはコンラッドに手を振って見送った。静かに閉ざされた扉の音が部屋の奥まで響く。
 「さて、準備、準備」
 ブー…ン…
 着替えや下着が入った戸棚を開けようとしたオレの耳に虫の羽音が聞こえた。
 トン。
 窓にぶつかったような音がして、また羽音が鳴る。
 トン、トン、トン…。
 まるで窓をノックするような音が続く。荷造りを終えたオレは、音のする窓際へと近づいた。分厚いカーテンの裏と窓の間に小さな羽虫がいる。窓に向かって何度も体当たりをして、弾かれていた。
 「あ〜、そこはダメだって」
 オレは、手を伸ばして窓を開けてやったけど、この部屋の窓は警備の関係でちょこっとしか開かないようになっていて、運悪く虫が体当たりしている場所より下だった。
 「ちがうって。こっち、こっち」
 手を伸ばして、虫がいるところより上に手を伸ばす。そしたら、下にくるだろうって思ったら、オレの期待を裏切ってもっと上へと飛んでいった。悔しいけどオレの身長じゃちょっと届かない。
 「すぐそこなんだけどなー…」
 オレの呟きを無視して、また体当たりが始まった。繰り返し、繰り返し決して越えることの出来ない壁にぶつかってゆく。
 「だから、そこじゃないって」
 だんだんと下に落ちてゆく虫は、それでもかまわずにぶつかってゆく。出口まではほんの30センチぐらいの距離なのに気付かない。
 「ばかだよな…」
 すぐそこにある出口を見ようとせず、窓の外に憧れてぶつかってゆく虫を眺めながら、オレはそう思った。出口はホントすぐそこなのに気付かない。ただ目の前だけを見て、ぶつかり続けている。
 虫に痛覚とかあるのかなんて知らないけど、ぶつかったらやっぱり痛いだろうしフラフラするはずだ。だけどコイツは諦めない。
 トン、トン…。
 たしかにバカみたいだけど根性がある。窓の向こうを求めて挑戦し続けて、ぶつかっているんだから。
 こんな小さなやつでも、がんばってるんだな。そう思ったら、なぜかあのオレを殺そうとした小さな女の子の顔が浮かんだ。あんな小さな子がどーゆーワケかさっぱりわかんないけど、オレを殺そうと思って、一人で乗り込んできたみたいだった。
 でも、どうして?もしかして誰かに言われてやったとか?いや、違うな。オレはちょうど対面したときのこわばった顔を思い浮かべた。
 今から思えば、これから自分のすることに緊張して顔色が悪かったのかもしれない。だけど、オレを見つめる目になにかおどおどしたような、自分のすることに自信がないような様子はなかった。
 うん。あれは誰かに言われてするような子じゃない。たぶん自分の意志でここに来たんだろう。だけど、それにしてもおかしい。だって、あの目には怒りとか恐怖とかそんな感じはしなかった。むしろ全てを拒絶したような冷たい目をしていた。
 そう、あの日見た獅子の目のようになにもかもがつまらないような目だった。だからかな?ものすごくあの子が気になる。
 こっちの「人間」にとって、このひじょーに典型的日本人の象徴である黒目黒髪は恐怖の権化みたいなものらしい。こっちに初めて来たときなんか石投げられたり、鍬構えられたもんな…。だけど、あの子にはそんな恐怖とか怒りとか、そんな感情が見えなかった。取り押さえられて連れて行かれるほんの少ししか見てないんだけどさ。あ、そーいえばまだ名前も知らない。
 トン、トン、ブ……ン。
 「あ」
 根性虫がとうとう透明な檻から抜け出して、青空へと誇らしげに消えてゆく。おめでとう。もう迷い込むなよ?オレは窓を閉めながら思いついた。
 そうだ。オレもぶつかってみよう。
 あんな小さな虫だってやれたんだからさ。あの女の子と話をしよう。
 どんな答えでもいいから、あの子の気持ちをちゃんと聞こう。恨まれるようなことした覚えないけど、あんな小さな子が精一杯オレにぶつけてきた決心ってヤツをとりあえず聞く。そして、あの悲しいまなざしの意味を知らなくちゃ。もし何か困っていて、それが理由でオレを襲ったなら助けてやれるかもしれない。悩むことがあるなら、そっからだよな。聞く前から悩んだって進まない。オレの命はさすがにやれないけど、出来ることはしてやろう。
 「まず第一に名前聞かなきゃ」
 挨拶はやっぱ人生の基本だ。
 オレは、部屋のクローゼットの奥からバカでっかいトランクをひっぱり出して、さっきの荷物をちょっと減らして放り込む。
 「よーし、準備完了!」
 中身のほとんど入っていないトランクを押しながら、オレは部屋を出た。


 ペンが走る音だけが部屋の中をかすかに流れ、その静寂すぎる空気に窓から差し込む光さえも遠慮がちに日だまりを作っている。安らかというには緊張感に満ちているのは、部屋の主のせいだろう。今日も眉間に軽く皺を寄せて、フォンヴォルテール卿グウェンダルは摂政のごとく書類に目を通し、可能なものには代理として署名をしていた。
 その静けさを破るように軽いノックが静かな部屋に響く。
 「入れ」
 重々しい声がそれに答えると、扉が静かに開いてコンラートが姿を現した。彼の姿をちらりと見ると、グウェンダルはあっさり視線を書類に戻す。
 「もう帰ってきたのか?」
 そう尋ねながらペンを走らせ、書類を決済してゆく。本来は魔王の仕事だが、怪我をして落ち込む少年に無理強いは出来なかった。第一、そんな手元不如意な状態で国政をされてもたまらない。
 「ああ。ありがとう、グウェン」
 「私はなにもしてない」
 グウェンダルがそっけなく答えると、コンラートは軽く笑う。
 「してるよ。ほら」
 そう言って、コンラートは決済の終わった書類の山を指さした。グウェンダルは、深くため息を吐いてペンを置いて、弟の顔を見る。コンラートはふわりと柔らかい空気をまとうように微笑んでいた。この様子からして、魔王の機嫌は直ったのだろう。
 だがそれだけのことで、わざわざ礼を言いに自分のところに来る必要はない。礼ならば、顔を合わせたときに言えばいいのだから。
 「それで?」
 「おかげで陛下は元気になったようだ」
 「そうか…」
 グウェンダルは折良く茶を淹れてくれたアンブリンに軽く礼を言うと、席をはずすように目配せをした。有能な彼女はコンラッドにもお茶を出すと、無言でその場を離れる。
 「で、次はどんな厄介なことだ?」
 扉が閉まるとグウェンダルが切り出した。あまりにまっすぐな問いかけにコンラートは肩を落とす。
 「厄介とはひどいな」
 否定しない。ということは、やはり面倒なことなのだろう。グウェンダルは顔の前で手を組むとそこに軽く顔を乗せた。コンラートの持ち込む「厄介」について、とりあえず聞く気でいるらしい。
 「あの暗殺者の少女はどうしている?」
 コンラートの目が冷たく細められる。そんな目をしている弟を見たのは久しぶりだ。
 「牢に入れて見張りをつけている。背後に誰がいるのか、誰から徽章をもらったのか尋ねたのだが何も答えん」
 それどころか徽章を離さない。ヘタに手を出して自害されても困るので、尋問はなかなか進まないでいた。
 「どうするつもりだ?」
 「吐かせねばなるまい。どこの誰が背後にいるかわからんが、魔王暗殺など許して置くわけにはいかない。もしかしたらシマロンが一枚かんでいるかもしれん」
 国内外の状況は緊張感はあるものの、内戦の危機はほぼ皆無であり、外国との戦争の危機も迫るほどの事態ではなかった。だが、その暗殺計画が進行いたとしたら、この静けさはなんとも不気味に思える。どこかでじっと身を潜めて薄笑いながら魔王の死を待つ者がいるのだ。
 「それにしても、子どもを刺客に使うとは予想していなかったな…」
 グウェンダルは眉間のシワを深く刻む。
 たしかに巧妙な手口だ。コンラートは敵とはいえ、まだ見ぬ相手の観察力には賞賛に値すると思っていた。小さくかわいいものに弱いこの兄の性格も考慮に入れた計画からして、相手はものすごい策略家だ。
 だが、それもここまでだ。
 コンラートは一度目を閉じると、静かに開いてグウェンダルを見つめた。
 「グウェンダル、頼みがある」
 「なんだ」
 コンラートは一歩前へ踏み出すと、小さな声で話し出した。
 「オレは陛下を連れて、ヒルドヤードに行く。もちろん極秘だ」
 「な…っ」
 思いがけない提案にグウェンダルが言葉を上げようとしたところで、『静かに』と言うようにコンラートが人差し指を口の前へかざした。敵が何者かわからない以上、城内も危険なことに代わりはない。
 「陛下には足の治療という名目で行ってもらう。その間にあの少女から情報を引き出し、すべて処分をしてくれ」
 冷たい視線そのままのようなコンラートの言葉に、グウェンダルの眉がかすかに動く。すべて、ということは少女の背後にいる黒幕だけでなく、実行犯である少女自身も含めてということになる。
 「グウェン、たぶんこのまま陛下がいればあの少女に尋問は難しい。さらに陛下のご気性からして、処分など下せない。敵の狙いはそこも含まれているはずだ」
 子どもを刺客に使ってきた狙いとしては、まず暗殺者だとは誰も思わないという利点もあるだろう。しかし、それ以上の利点はほかにもある。
 「たぶんだが、こちらがあの子の尋問に手間取っている間に敵は逃げるつもりだろう。それも計画のうちとなると…今、取り逃がせば、次はもっと巧妙に仕掛けてくる」
 それだけは避けたい。
 どのように狙われても、もちろん守ってみせる。だが危険は少ない方がいい。コンラートはこの命に替えてもよりも、それだけは果たす覚悟でいる。だが、その命の替えたとしても守れない場合もある。もっとも心配なのはユーリの優しい心だ。
 「相手はこちらのことをよく分析しているような気がする。例えば子どもを暗殺者にしたとしても、陛下は厳しく罰することなどしないと踏んでの作戦だとしたら?」
 コンラートの言葉にグウェンダルの顔がこわばる。
 「そうだな…あの『陛下』ならたしかに処罰などできまい…」
 きっとあの少女に同情して、釈放してしまう可能性の方が高い。そして、自分が命を狙われたことよりも、そんなことをさせられている相手のことで心を痛めるだろう。あの少女が取り押さえられて連れて行かれる時に見せた有利の表情がコンラートの中で蘇る。足まで痛めたというのに、なんとも心配そうに見送っていた。
 殺されかけたというのに…。ぎりっと歪んだ音を立ててコンラートの奥歯が鳴る。
 いつもは誇らしささえも感じる少年の優しさが、今はとても憎しみにも似た痛みでコンラートを苦しめた。魔族も人間も分け隔てない優しさは彼の美点だと思っても、それを噛み切って暴れるような感情が、コンラートを責めてたてる。
 その美点が諸刃となって、史上最強であるはずの双黒の魔王の命を落としかねない危うさに気が狂いそうだ。かつてジュリアがそうだった。強大な魔力があったとしても、他人を守るために魔力の限界を超えて死んでしまったように、有利もその優しさによって命を落としたら?
 そんなことにはさせない。
 そう叫んでいる感情がコンラートの中から食い破る勢いでうごめく。それを押さえ込むように、コンラートは手を強く握りしめた。怒りにも似た感情は、見えない敵だけでなく、誰彼かまわずに牙をむけるような勢いでふくれあがっている。
 そう、被害者であるはずの有利にまで苛立ちを隠せないほどだ。押さえ込むように、コンラートは両腕を組む。そうしないとこの腕は暴れ出してしまうような気がした。この名前のない乱暴な感情が求めるままに何をするのか分からない。
 しかし苦しいほどに痛みは出口を求めていた。誰でも手をさしのべる、その優しい少年の腕をこの両腕でふさいで閉じこめてしまいたいほどに。



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