死せる世界の涯で 8 | |
小春日和の日差しを喜ぶように道ばたの花が揺れている。そんな穏やかな風景の中をしばらく進んでいたが、やがて緑が深くなってゆき、木々が増えて道を取り囲むようにそびえてきた。 森のような木立が目に付くと道が細くなり、それがまっすぐ山の中へと入るころ、同じ場所を目指す人がちらほらと見えてきた。コンラートは有利に頭巾を深く被るように言ったが、馬に乗っているので下からみれば双黒とわかってしまう。道を歩く者の中にはその姿を見て目を見張る者がいた。 「みんな歩いてる。オレも歩きたいよ」 「足が完全に治ったらね」 馬に乗っているのは自分たちだけだということに、有利は気が引けているようだった。だが、そればかりではないだろう。 「大丈夫です、今だけですよ。すぐに元どおり走れるようになるから」 異国で怪我をして気が弱っているのだろう。弱い声で判っていると返ってきた。山道を登るため、コンラートの腰にしがみついている有利の手が、少しだけ強く服を握る。 コンラートはそこに手を重ねた。寒さで白くなった手にすこしだけ温かさが戻ると、硬く握られた手からゆっくりと力が抜けてゆく。しばらくすると、もはやコンラートの手の温かさなのか有利の手の温かさなのかもわからなくなる。 じんわりとそこだけ温かい。その温かさが体の中にも伝わってコンラートをやさしく温める。こんな風に彼の心も和らげばいいと祈りながら、コンラートはずっと手を重ねていた。 二人の上に広がる緑の天蓋が途切れがちになり、冬の淡い空がこぼれるように見えてきたころ、コンラートは振り返って有利に声を掛けた。 「もうすぐですよ」 木に覆われて薄暗いような森がいきなり開ける。冬の薄い空がすぐそこに迫るように広がっていた。 「さあ降りて。足に負担をかけないように」 コンラートの肩を借りて有利はおそるおそる馬から下りた。杖を握ると左手に体重をかけ、確かめるように歩き出す。 冬の薄く青い空は薄いベールをまとったように霞みがかっていた。山を覆う木々は海のようなうねりを持ち、それはまるで展望台へと寄せる波のように広がっている。緑の海に浮かぶように、遠く王都が見えて自分たちの来た道のりを感じさせた。 「へえー!なんか遠足を思い出すよ!天覧山の公園で昼飯食ったんだよな」 やはり日本の風景に似ているようだ。コンラートは、少し懐かしく目を細めた。 昔、地球にいたときに日本の写真を見せてもらったことがあった。アメリカやイギリス、ドイツと色んな場所を見たが、日本の景色を見たとき、ここの風景と似ていると感じた。 まさか、そんな思い出がこんなところで役立つとは思わなかったが。 コンラートはやっと表情が晴れた有利を見る。このところ悩んでいたところに、今朝の暗殺未遂があって、すっかり気落ちしていたが、まさかこんなに喜んでもらえると思ってはいなかった。 やはり故郷が寂しいのだろう。そう思うと、その笑顔が少し悲しい。コンラートの中で小さな痛みがまた疼くように彼を苦しめた。 目の前に広がる風景をもっと見ようとして、有利が嬉しそうに柵に近づいてゆく。 「気をつけて。喉笛一号をちゃんと使ってください」 「わかってるって。やっぱ山の頂点まで来るとさぁ、こう山びこを聞かずにはいられなんないよなッ」 そう言って、有利は同じように柵の近くで景色を楽しんでいる子ども達のそばへと寄っていった。手を口にそえて叫ぼうとする。 「やっ……」 「うっふーんッ!」 さらに色んなところから掛け声が上がる。それを呆然とした様子で見ている有利が呟いた。 「何故こんなことに」 「頂でのメジャーな掛け声なので。日本ではどんな感じですか?」 「やっほーだよ」 「それまた、色気の欠片もない」 風景は似ていても、やはり習慣は違うらしい。複雑そうな顔つきの有利をしてぶつぶつと呟いている。なにか思い悩むことでもあるのかとコンラートが耳をすませると、ならあっはーんの立場はどーなるんだ?と呟いていた。どうやら山びこについて考えていたらしい。 コンラートは肩から力を抜いて、景色を見た。 ここに来るのは久しぶりだ。誰かと仕事以外で遠出すること自体久しぶりだった。空は淡く澄んだ色で、それだけで心が和む。そのおかげで、有利の晴れやかな顔が見ることができたのかもしれない。そう思うと、低く霞むようなこの空もやさしく広がっているように感じられた。 叫び終えた観光客が、振り返って有利に気付いた。 「気の毒に坊や、若いのに足が悪いんだね。あっちの方向に向かって祈るといいよ。あっちには眞王廟も王城もあるから、きっとあんたの願いも聞いてくださるよ」 「えーと。どうもご親切に」 有利は困ったようにお礼を言うと、柵に寄りかかって言われた方向を見つめた。コンラートは傍に立って、頭巾に隠された彼の頭を見つめた。 何を祈るのだろう。足の平癒だろうか?それとも…。 コンラートは軽く目を閉じて、考えを止めた。再び目を開いたが有利はじっと眞王廟を見つめている。 どんな願いも叶えてやりたいが、たったひとつだけは。 コンラートは胸に広がる鈍い痛みから逃げるように、有利から目をそらしてやり過ごした。 「寒くないですか」 「平気」 風邪などひかせないため有利には着込んでもらったが、やはり山の頂は冷える。コンラートは持参した水筒を開けて、酒を小さなカップに注いだ。それを有利に渡すと一口飲んだ有利がむせる。 「さ、酒じゃん!これ!」 「身体が温まるとおもって。もうすぐ十六歳なんだから、そろそろ慣れておかないと」 そうコンラートが言うと、まだむせた様子の喉を軽く咳払いして有利がにらみつけた。 「あのなっ日本人はな二十歳までは禁酒禁煙なの!まあそんな法律がなくっても、オレは身長の伸びる可能性が残されている限り、成長促進の妨げになるブツはやんないけどね」 「そうか、日本では二十歳で成人でしたね。この国では十六で大人とみなされるものだから」 コンラートがそう言うと、有利が目を丸くした。 「十六で?早くねぇ?」 「さぁどうだろう。他と比べたこともないし」 コンラートの答えに有利が眉を寄せて考え込んだ。なんとなく何を想像しているか判って、思わず笑みがこぼれる。 「魔族の成長に関しては一概にはいえませんが、俺は異なる血が流れているせいか、十二歳くらいまでは人間のペースだったな。そこから先はえらくゆっくりだったけど」 有利が感心したような声を上げた。 「ヴォルフなんかは由緒正しい純血魔族だから、儀式のときにまだまだ子供でしたよ。そうだな、今朝の自称ご落胤の女の子くらい」 コンラートの言葉に有利から驚きの声が上がる。 「女の子だったんだ?!」 「気付かなかったんですか?」 有利は驚いた顔のまま頷いた。本当に気付かなかったらしい。ふたりの間をかすかな風が流れていく。コンラートは柵に寄りかかって、風が去っていった方向を見つめた。 「この国では十六の誕生日に、先の人生を決めるんです。自分がこの先、どう生きるのかをね」 コンラートの十六の誕生日は、ちょうどこんな青空だった。その淡い空のようなどこか寂しい笑顔で母は言った。「人間として生きてもいいのよ。どんな道を選んでも血の繋がりは変わらないのだから」と。 「軍人として誓いを立てるか、文民として繁栄を担うか。あるいは偉大なる先人の魂を護り、祈りの日々を送るかを。決めなくてはならない事項は人によって様々です。グウェンもヴォルフも、父母どちらかの氏を選ばなくてはならなかったし、俺は十六で魔族の一員として生きることを決めた……人間側としてではなく」 そう決めた朝に聞いた母の声が、またコンラートの中に蘇る。 「ごめんなさい」 ツェリはコンラートが十六になった朝、そう告げた。あなたが魔族として生きてゆくのに、わたくしはなにも助けてやれないと。 せめてシュピッツヴェーグの名をと言う母に、コンラートは首を振った。 「俺が父の名を継がなかったら、ウェラーの人間がいなくなってしまいます」 遠く旅に出たっきりの父は、生きているのか死んでしまったのかも定かでなかった。コンラートがそう言うと、ツェリは泣きそうな顔をして息子を抱きしめた。 「あなたは私たちの自慢の息子よ。コンラート」 少し震える母の肩を抱き返した時、自分が本当に愛されて生まれたのだと嬉しかったことを覚えている。故郷とよべる場所はここだと、そのとき心から思ったからだ。 そよ風がコンラートの後ろから流れて、遠くへと消えてゆく。あの日からたくさんの時間と出来事がこの身に通り過ぎていったように。 そして、木々をざわめかせ、また新たな風がコンラートと有利の間を駆けていく。それを追いかけるように遠くを見つめるコンラートの目に迷いはなかった。有利はそれを見て、コンラートに気付かれないようにこっそりと息を吐いた。 今まで悩んでいたことが、するりと体から流れ落ちるように消えてゆく。肩から余計な力が抜けて、その身軽な気持ちに思わず笑いそうになった。 そーだよな、だってここがコンラッドの故郷なんだし。 彼はすでに道を選んだのだから、少なくとも突然有利の前からいなくなることはない。そう思うだけで、ホッとしている自分がいた。子どもじみた喜びに有利が浸っていると、コンラートがこちらを振り返ったので、慌てて彼が見ていた方向に目を背けた。 「ギーゼラはやっぱり十六で、フォンクライスト家の養女になることを選択したはずです。一生のうちに一度は、その後の運命のかかった決断をしなければならない時がある。魔族にとってそれが十六の誕生日なんです」 有利の視線の先に血盟城と眞王廟が見えた。有利にももうすぐ決断の日がくる。こちらの時間と日本でも時間はデジアナGショックが正しければ、ほぼ同じ時間が流れているのだから、有利の誕生日までもうすぐだった。 でも、自分が決めなくてはならない運命はなんだろう? 少し気が晴れた有利は、自分の中を探るように考えだした。 眞王の命で魔王になる運命だったが、魔王になると決めたのは自分だ。それは運命の決断だけど、それとは違うようなことがある気がする。まだなにかは判らないけれど、予感めいたものが、有利の中で気付かない自分を急かしていた。 あせる気持ちから逃げるように、緑に埋もれる眞王廟を見た。あそこに祈れば、願いが叶うという。でもオレの願いってなんだろう? 国を、と願うことよりも強く願うことがある気がする。そう思うと、血が逆流でもするような感覚が走る。 有利は奥歯を強く咬んだ。頭巾のおかげでコンラートにはこの焦りが見えないことにほっとしながら、眞王廟を見つめた。 なにを、と言われると言葉にできない。カタチにしてしまったら、もう戻れないような、なにもかもが変わってしまうような恐れがある。 まるで試合前の緊張感のような感覚が有利の中にあった。わくわくするような緊張感ではなくて、うまく体が動きそうもないような時の緊張感に似ている。 つまり、それは望んではいけないことなのかもしれない。まだはっきりと解らないけれど、もしそれに気付いてしまったら、きっと自分は目をそらすこともできないだろう。 どくどくとせき立てるように、有利の心臓が高鳴る。「それ」がなんなのか、わからないけれど、ひとつだけ確かなことはわかる。 きっと気付いてしまえば、自分は「それ」を手にすることを望んでしまう。 少し大きめのダウンジャケットの中で、有利は知らず手を強く握った。そう感じただけなのに、罪悪感で足下がぐらつく。有利は恐くなって思わず思ってもいないことが口からこぼれた。 「…じゃあ、オレ早く大人になんないと」 「何故?」 有利はごまかすようにコンラートへ笑顔を向けた。 「ギュンター困ってそうだしさ」 「そんなはずがアラスカ」 一瞬、沈黙が二人の間に下りる。ひきつったような顔で有利がおそるおそる尋ねた。 「い、今なんて言った?」 もう一度言おうとしたところで、大慌てで有利が止める。首が痛いくらい振られた。 「元気ないみたいだから、ちょっと笑わせようかな、と」 笑顔のコンラートに有利が半分真剣な顔で話しかける。 「コンラッド、今後一切オレを笑わせようなんて考えなくていいから。いいか?金輪際だからなッ?!」 「いやだなあ、一回スベッたくらいで。もう一度チャンスをくださいよ」 寒いダジャレが嘘のような爽やかな笑顔で、コンラートがもう一度だけチャンスをもらったが、すぐさま有利が遮った。 「あーっもういいっやっぱいいっ!オレもう元気だから、元気じゃないのは足だけだから!」 確かにさっきよりは元気な様子だ。 「じゃあ、足首も元気になりにいきますか?」 いたずらでも企むような笑顔なのに、どこまでもイイ男にしか見えない笑顔でコンラートが有利に囁く。だけど、どこか子どもっぽいような笑顔が楽しくて、有利はその計画に乗ってみることにした。 ←7 →9 |