死せる世界の涯で 5



 まだうっすらと夜のなごりが血盟城の廊下に残っている中、ウェラー卿コンラートはその静けさを壊さないようにゆっくりと歩いていた。小さな足音と鳥たちが朝の挨拶のように鳴いる声だけが聞こえている。このところ毎朝通っている部屋の前で止まり、大きな扉に手をかける。
 そっと開けた部屋の中に、奇妙な寝息と唸るような声が満ちていた。
 …またか。
 そっと扉を閉めると静かに鍵をかけて、コンラートは天蓋のついたベッドへと近づいた。見れば、そこにはネグリジェに身を包んだ弟と魔王陛下が眠っている。仲良くというには、二人とも寝相が悪い。まぁ、仲はいいのかもしれない。一応「婚約者」なのだから。それでも夜明けの婚約者たちの寝床にしては、少しも色っぽくない。まだどこか幼さが残っている寝顔のせいだろう。
 「ぅ…」
 愛らしいと言うには苦悶の表情を浮かべている魔王がうめいた。それもそのはず、彼の体の上には婚約者がどっかりと乗っかっているのだ。
 まったく…警備面ではいいかもしれないが、これでは陛下が休まらないかもしれない。
 コンラッドは、小さくため息をもらした。
 「…エ…ジ…」
 しかし、そんな状況下だというのに、それでも寝ているあたりがすごい。
 「バ…カやろぉ…」
 しばらく前によく聞いた寝言を久々にこぼしている。どうやら苦しそうな寝顔は、ヴォルフラムのせいだけではないようだった。
 このところは見ていなかった悪夢にうなされている。突然、自分がいた世界に帰れなくなった彼は、最初のころよくうなされていた。こちらに必要な者とはいえ、まだ親元で健やかに過ごすはずだった少年が突然引き離され、さらに夢の中でも苦しむのは胸が痛む。コンラートはそっと手を艶やかな髪に伸ばして、起こさないように撫でた。
 まだヴォルフラムが小さな頃、こうやって撫でると安心して寝付いたように、彼の眠りが安らかなものであることを祈る。その一方で、鈍い痛みに似たものが背中をちりちりと焼いた。
 どうやら、俺の杞憂だったか?
 このところ有利が悩ましげだったのは、てっきり自分の言葉が原因かと思っていたが、この様子では違ったらしい。そう思うと体の中でなにかがちくりと痛む。それを流すようにため息をこぼすと、手のひらの下で眠る有利が小さく身じろいだ。起こしてしまったかもしれないと、コンラートが手を引くと彼の目尻に淡い悲しみが浮かんでいた。
 「起きてください。陛下」
 そんな悲しいところに有利を置いておきたくなくて、コンラートは思わず声をかけた。瞼が小さく動いて、黒曜石のような瞳がぼんやりと開く。すぐにその瞳はコンラートを捕らえて、お決まりの言葉をかけた。
 「…へいかって呼ぶな。名付け親のくせに」
 どんな時でも、ほぼ必ず返されるこの言葉はコンラートだけのものだ。身分などのない国に育った彼は、尊称で呼ばれることに慣れていない。だが、他の者がそう呼んでも何も言わないのに、コンラートにだけ言うわがままのように何度も繰り返す。その言葉がまるで呪文のように、コンラートの中にあった痛みが消えてゆく。それを温かく感じながら、思わずこぼれた笑顔で有利に詫びた。
 「失礼、つい癖で。でももう三番目覚まし鳥が鳴きましたよ」
 それは本当だ。彼の髪を撫でている間に鳴いているのを遠くで聞いた。すると、ものすごいイキオイで有利は起きあがった。
 「嘘っ?!」
 あわてて起きあがろうとするが、ヴォルフラムががっちりと抱きついているせいで思うように動けない。自分の悲しみをまるで隠そうとするかのように、有利がもがいている。それが妙に切なくて、コンラートはその目からこぼれそうになるものをすくうように目尻をぬぐった。
 「またバンドウ君の夢を?」
 「まぁね……もう四ヶ月も経つのにな。……ああっそれどころじゃねーよこいつ!いやに苦しいと思ったら、こんな全身でのっかかっているじゃないかッ!」
 ヴォルフラムは全身をからみつかせて、怒鳴られてもまだ眠っている。これでは刺客が来ても起きないかもしれない。
 「冗談じゃないよ…こんなところをギュンターに見られたら…」
 それはたしかに修羅場かもしれない。そう思った時、扉が激しく叩かれた。
 「もう来ておりますー!」
 小さいながらも激しく揺れる扉に有利がたじろいだ。たぶん扉の向こう側では長い髪を振り乱しているに違いない。コンラートは障害物と化している弟をよけるために近づくと、ヴォルフラムを脇に転がしてどかした。ついでに青ざめている魔王に微笑む。
 「念のために鍵を」
 「さすがだコンラッド。助かった」
 ほっと安心した有利は素早く寝台から飛び降りて着替えを済ませる。それを確認して、コンラートはまだ揺れている扉に近づくと、振り返った。着替え終わった有利がうなづくのを笑顔で答えると、鍵を開けてふたりは駆けだした。
 「何故あなたが陛下のお部屋にーっ?!しかも褥の中まで!」
 後ろから悲鳴のような声が聞こえたが、逃げるように走った。朝の空気の中に飛び出すとギュンターの声をかき消すように冷たくこわばっている。日々冷え込んで、その中を走ると冷たい冬の女神の手が顔を撫でるようだ。吐く息が白く朝日に溶けてゆく。
 「だいぶ冷え込むようになったなー」
 「寒くありませんか?」
 「なんの。走ってるうちに温まるって」
 そう強がる彼の目尻が小さく光っている。
 「大丈夫ですか?」
 なにが、とは言えない。元の世界に返して欲しいと言われても、魔力のない自分にはなにもできない。しかし、それと同時に帰ってしまった時のことを思う自分がいる。この温かい気持ちが冷え込んでいくのを感じていた。
 「何が?大丈夫だよ」
 なんでもない顔でそう答えられてしまうと、もうなにも言えない。ただ、ひとりで苦しんでほしくないと祈りながら、それでも心から彼の願いに賛同できない痛みを黙って飲み込んだ。


 寒いながらも走りきるころには、汗をしっかりかくほど温まった。このままでは風邪を引かせてしまうので、有利に風呂を勧めると快く応じた。着替えを取りに部屋へ戻ると、だいぶお腹が大きくなってきたニコラが二人に駆け寄る。
 「お久しぶり!陛下、お元気でいらした?」
 笑顔で尋ねる彼女は、その様子からして母子ともに順調らしい。人間嫌いだったゲーゲンヒューバーが愛した人間の少女。この笑顔ならば、たしかにあの堅物の心も溶かすかもしれない。
 ─はぐらすな!ヒューブの罪を許すのか!
 傾きかけた太陽が燃え尽きるように沈む中で、弟が叫んだ声が心の中で蘇る。人間である自分を嫌って以来、ヴォルフラムとまともな会話なんてしたのは初めてだったかもしれない。そんなときに言われた言葉に、コンラートは正面から答えてやれなかった。ただ嘘は言ってない。彼の望みを叶えたかった。きっと、そう願うだろうユーリの願いを。
 もう、いいんだよ。ヴォルフラム。
 ─あいつさえいなければ今頃お前は、ウィンコットの城主になっていた!
 どうだろう?たとえジュリアが生きていたとしても、自分がウィンコットとなっていたかなんてわからない。そう言われても、過ぎ去った時間と有ったかもしれない未来を慈しむ気にはならなかった。
 あのころ、いくつもの死がコンラートの中で過ぎ去っていった。いずれ必ず死が愛する者たちと自分を分かつと解っていても、別れの時はいつだって辛い。これまで傷ついた日もそして全てを呪った日もなかったわけじゃない。
 「え?動いてるの?」
 「えぇ。結構元気なのよ、男の子かしらねー」
 コンラートは、ふくらんだニコラのお腹に向かってエールを送る少年を見つめて目を細めた。遠い昔、ああやって自分も生まれてくる彼に遠くから祈っていたことを思い出される。直接会うことは憚られるが、警護のために離れたところからよく身重である彼の母を見ていた。
 生まれる命を待つ間、彼女のお腹が膨らんでいくにつれて、それとともに季節が優しく移ろいで、冷たかった風が温かく爽やかになっていった。まるで「彼」の誕生を祝福するかのように、木々が芽吹いて世界が色づくのを晴れがましい気持ちで見ていたものだ。
 そして、待ち望んだ日のあの喜びの中、青空に鳥が羽ばたいて行ったのをよく覚えている。なんてことない名前も知らない小鳥だったけど、風に乗り大空に物怖じせず誇らしく飛びゆく姿を見た時、自然と涙が流れた。
 どこまでも死は振り払えず、生きて欲しい者と永訣する死せる世界だけど「彼」に会えた。
 だから、いいんだよ。ヴォルフラム。
 あの日の青空は、今も心の中に広がっているのだから。


 朝の執務室では、ギュンターとヴォルフラムが口論を繰り広げいた。ヴォルフラムがまだ寝間着姿であることから察するに、自分達が出ていた直後から今のいままで続けられているらしい。
 「ですからっ、何故あなたが陛下のお部屋で寝起きしているのですか?!」
 「ユーリはぼくに求婚したんだぞ?寝所を共にしたいにきまっている」
 ヴォルフラムとギュンターのケンカを有利と聞いていたニコラが首を傾げながら呟く。
 「お二人とも何を勘違いなされているのかしら?陛下にはグウェンダル閣下がいらっしゃるのに」
 「それこそ最悪の勘違いだっ!」
 魔王陛下には悪いが、思わず笑ってしまう。ニコラによってケンカが漫才に変わる中、扉を叩く音を聞いてコンラートはその場所を離れた。扉を開くと緊張した兵士が、扉の外で口上を述べる。
 「申し上げますっ」
 あまりの緊張に、コンラートは助けるように声をかけた。
 「どうした」
 「そのっ、魔王陛下にあらせられてはっ、ご公務以外の時間とは存じますがっ」
 「そんな畏まらなくてもサクサク言ってくれてかまわないのに」
 有利がこちらに一歩踏み出して兵士に話しかけた。身分の隔てなく人と接することができるのは彼の美点だが、周りも同じようにはいかない。魔王陛下直々の言葉に兵士はよけいに緊張してしまったようだった。
 それでも兵士は魔王陛下に面会を求める者がいるということをしどろもどろで言うと、さらに人払いを求めた。その言葉に、ギュンターとヴォルフラムの柳眉がつり上がるのを見て、苦笑しながコンラートは兵士を促した。
 「大丈夫だ。皆、口は堅いよ」
 ここにいる者は皆、有利を愛している。さまざまな愛だけど、ちょっとやそっとのことで彼を見捨てたりはしないことだけは確かだ。
 その言葉に少し戸惑いながらも、兵士はつばを飲み込み息を吸い込んでから声を上げる。
 「眞魔国国主にして我等魔族の絶対的指導者、第27代魔王陛下のご落胤と申す者が…いえ仰る方がお見えですっ」
 温かだった朝の執務室の室温が一気に下がった。


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